「B級グルメに関するアンケートの郡司ペギオ幸夫の回答が面白い」という評判を目にし、以前から気になっていた『生命壱号』(青土社 2010年)と共に買いました。郡司氏の文章には独特のリズムがあり、内容も面白くて、楽しく読めました。
A級グルメは、全ての材料が各々部分として全体の調和の中に位置づけられる、と特徴付けられるのに対し、B級グルメは、部分でしかない特定の材料(焼きそばの芥子など)が全体を乗っ取る勢いで口の中に広がり、乗っ取りの失敗と共に全体の調和の中に消えていく、と特徴づけられています。部分による乗っ取りが、お約束のキレ芸のように、人々に認知されれば、B級グルメの特徴は薄れ、A級グルメとしての居場所を確保することになります。そのようなときがいずれ来ることが予感されることも、B級グルメの特徴として添えられていました。
これを書いている私は、ユリイカ2011年9月号の郡司氏以外の文章はほとんど読んでいないせいか、部分である郡司氏の文章が私の中で収束する気配がないのです。いまだに魚の小骨のようにのどに引っかかったまま、違和感を残しています。以下、揚げ足取りのように見えるかもしれませんが、私にとっては郡司氏に聞いてみたい内容でもありますので、ここに書くことをお許しください。
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さて、郡司氏の文章の冒頭部分に次のようなことが書いてありました。
『大学院での飲み会はいつも(当時の地元であった)仙台のみんみんで、レバーのから揚げとピータンばかりを食べていた。同じメンバーで大阪を訪れたとき、みんみんを見つけ、先輩が「ここなら安心だから」とそのみんみんに入った。(郡司氏は)「大阪に来てまでみんみんかよ」という憤りで、その味を覚えていない。最近になって、みんみんはメニューや味付けなどが、ある程度、店ごとの裁量に任されていて、店によっては個性的なメニューがあることを知った。神戸の三ノ宮のみんみんのお勧めは、黒炒飯と沖縄そばである。』
全体を読み終わってこの部分にとても違和感を感じました。
B級グルメからA級グルメへの移行には、大衆による認知ということがあるのだから、『(1)昔はみんみんの同一性を見ていたが、(2)最近はみんみんの差異を見ている』という構成にしてしまうと、(1)から(2)へ移行する中にある、みんみんの認知に関する観測が見えてしまいます。しかしそこには言及しないのですから、簡潔に、『神戸のみんみんの独自のメニューに黒炒飯と沖縄そばがあって…』と書けばいいと思うのです。
もう少し説明します。
むかし大阪でみんみんに入ったとき、メニューが仙台のみんみんと同じであることが信じられていたわけですから、「仙台と大阪の店の雰囲気や客層の違い」を同一化するみんみんという認知について知る絶好のチャンスだったわけです。すでにメニューが微妙に違うことを知ってしまっている今は、それも適わないわけですから、見落としていたのは、神戸のみんみんと仙台のみんみんのメニューの違いではなく、大阪でのみんみんの認知に関する観測の1回性ではないでしょうか?神戸のみんみんと仙台のみんみんのメニューの違いは何十年かけてじっくり観察できます。違いなんかそのままいるだけでいずれ見えます。しかし、大阪でのみんみんの認知に関する観測は1回しかありません。
理念的同一化によって隠蔽される身体的差異が、逆に理念的同一化を突破し、その残骸の中に黒炒飯と沖縄そばを見つけた、というわけですが、大阪と仙台の客層という理念的差異が、同じ人間としての身体的同一性によって解消され、みんみんの支持や認知をもたらすことについては置き去りにされています。簡潔に『神戸のみんみんの独自のメニューに黒炒飯と沖縄そばがあって…』と書けばそれは起こらなかったと思うと、何か他に深い意味があるのではないかと考えてしまいます。「昔と変わらずにみんみんで食べていることの照れ隠し」というわけでもないでしょうし。
そもそも、郡司氏は、仙台では、いつも同じ店で、同じものを注文していたのですから、むしろ、当時のその先輩の大阪での選択を受け入れそうなものなのに、憤りを感じたと書いています。これも分からないと言えば分からない。「憤りの原因は別のところにあったのではないのか?」とか、「研究室のS先輩と距離を置いていたことに触れておきたかったのか?」とか、ついつい「余計なこと」を考えてしまって、どうもいかんです。
と、書いたら、小骨もどっか行ったみたいです。