メルロ=ポンティの研究で有名な阪大学長の鷲見清一。本書はそんな彼が挑んだ初のファッショ
ン論だ。といっても刊行は今からもう四半世紀ほど昔。『マリ・クレール』での連載の書籍化なのだ
が、もとの連載を鷲田に依頼したのは、村上春樹を「発掘した」と言われているヤスケンこと故安原顕
らしい。
本書を読み考えるうえでキーワードとなるのは両義性だ。過小であり過剰、秩序であり混沌、美徳
であり背徳、従属であり抵抗、自然であり人工、見ることであり見られることであるファッションの両
岸を、なんどもなんども往復する。
衣服で着飾ることは、本文中で触れられるコルセットや纏足の例が示す通り、本来あるがままの自
然の身体を従属させることを意味する。だがそれだけならフーコー的身体観でしない。ではなぜこの
自由な「消費社会」でも我々は裸のサルに回帰しないのかという話になる。そこで著者は問いを逆さ
にする。いやむしろ、服を脱いだところに自然の<わたし>がいるという考え方や、服を脱いだところ
に生来的なエロティシズムが隠されているという信仰こそ、むしろフィクションではないかと。
わたしは服に拘束されていると同時に、服に覆われることによってでしか<わたし>という存在にか
たどられない。コップに注がない限り水が形を有しないのと同じように、わたしは服を着ない限り<わ
たし>になれないのではないのだ。そして、自分を見ることができないという身体的宿命ゆえに、われ
われは服を着て(本書でこれを可視性と呼ぶ)他者に見られることで、はじめて<わたし>を確認する。
ある意味これもフランス現代思想チックであるが、鷲田はそんなラディカルな論を打ち立てる。
氏の著述は毎回単線道路を進むというより、一周する円をなんどもなんどもループする印象を受ける。
だがそれは単なるループというより、われわれがかの「桑田ロード」のエピソードを知るときに感ずるス
トイックさを備えている。