つい先日、女の後輩と話していたら女は同じ服をなんども着ることができないため、必然的に買いまくっては捨てる、買いまくっては捨てるということを毎年繰り返しているということを聞いた。何年も着回す男からすれば、なるほどそうかという面白い話だったのだが、どうもそんな女のファッションの「常識」も変わりつつあることが、本書『モードとエロスと資本』の冒頭、その贅沢なイメージとは正反対に見える「エコ」を取り入れつつある近年のモードを取り上げることによって明らかになる。
本書は服飾史家でエッセイストでもある著者が、世紀が変わり時代も変わり、そしてファッションの潮流すら変わりつつあるということを活写するエッセイ集だ。
ただ読んでみると、本文でも紹介されているヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』と鹿島茂『セックス亡国論』が種本のようである。特に、前者はタイトルからして本書への影響の大きさがわかる。
かつての服飾産業の発展の裏に、資本主義とともにエスタブリッシュメントらによって繰り広げたら恋愛という原動力があったことを明かすヴェルナーの本に依拠する本書が描くのは、現代において女性ファッション誌等で盛んに取り沙汰される、そもそも恋愛という目的のための手段であったはずの「カワイイ」「エロイ」といったキーワードが、いつのまにか「男不在」のなか空転し、自己目的化していっているという状況である。女子たちは「カワイイ」を追究すれば追究するほど、彼女らは恋愛から遠ざかっていく。
ここら辺の事情は、ゼロ年代のオタク評論家の本田透の議論と比較すると非常に興味深い。本田は現実の女性に絶望したから三次元恋愛へオタクが退場したのだと叫んだ。しかしこの本を読めば分かる。恋愛から退場したのは男のオタクだけではなかった。自分ではまだ退場していないと思い込んでいたオシャレな女の子たちも、実は恋愛という実がともなっていなかったのだ。