このDVDを観るに先だってCDで演奏だけをさんざん聴いていたこと、そして各種のメディアでその評をさんざん眼にしてきたこと、この2つの要因のおかげで、それほどの違和感を感じることなく鑑賞することができた。
むろん、そうでなければカナリの抵抗があったであろうことは事実だし、そうでないとしても「こんなものは『フィガロ』じゃない!」という声があるのは至極当然だと思う。少なくとも、「初めて眼にすべき」フィガロでは明らかにない(私は3年生の娘と一緒にオペラDVDを観るのを常としているが、サスガに見せられないシーンが多々あった;苦笑)。正統的でまっとうな(?)演出を期待して「ホノボノと楽しい時間を過ごそう」と意図すると、見事にカタスカシを喰らうであろう。
しかし前述の理由もあって、あらかじめ「覚悟」を決めてから観てみると、実に含蓄がある演出とも言える。むろん、どう見ても無理のある場面や明らかにオカシイ部分も多々あり、その意味ではもっともっと「磯野家の謎」を参考にして(笑)処理を練り込む余地があったのは明らかだが、感心する部分も多かった。そしてそれは、グートの演出そのものに感心した、というよりも「まったく同じ脚本(オペラだから、一字一句とて変更は許されないワケだ)であっても、ここまで雰囲気が変わるものか」という「人間ドラマ」の奥の深さに感心したのであり、それを音楽で体現したアーノンクールも、やっぱり大したものである。CDだけ聴いていると、とにかくその遅さとウィットのなさ、融通の利かなさに腹さえ立つが(笑)、しかし映像を観ると大いに納得するし、「フィガロ」をよくぞここまでシリアスな音楽に変え得たものだと感心する。そしてこれは、実際に私たちの人生劇場そのものに関しても、大いに教訓となることである。「私の人生を楽しく朗らかにするか、それともシリアスに重いものにするか」なんて、まったく同じ台詞で一日過ごしたとしても、大いに変わる可能性がある、ということに気づかされたのである。ならば、朗らかに楽しくした方がよいに決まっているし、同じ台詞を口にするにも、その意味すらまったく変えて発信・受信する可能性がある、という気づきである。これも人間ドラマの奥深さと言え、それに配慮せず生きているのとそうでないのとでは、1年も経てば大きな差が生じているだろう…という気づきである。
閑話休題。しかし映像作品としては、さすがにモーツァルト生誕250周年のザルツブルクで、しかも劇場新装のこけら落とし上演となるだけあって、(内容・解釈の是非は別にして)盤石の完成度、と言わざるを得ない。歌手のレベルも超一流、ネトレプコの美しいスザンナ、演技のリハーサルも完璧で、グートの演出意図を歌手が完全に体現できているのは見事。ただし、シェーファーのケルビーノとレッシュマンのコンテッサは、ビジュアル的に完全に×。こういう演出をするのなら、もっと違った人選ができたはずだ。
台本にはない黙役の天使ケルビン役のウリ・キルシュは大変な美男子で、同性の眼から見ても魅了される。これも解釈の是非を云々する前に、その麗しさに「すべて許す」のであり(笑)、ケルビーノとコンテッサもそういう人選をすべきだった。
男声陣は盤石。当代随一の伯爵であるスコウフスのノーブルな表現と苦悩に満ちた役作りは特に見事であった。60kgのキルシュを背負いながら歌う場面では、ついつい観ているこちらまで力が入り、「ガンバレ!」と応援してしまうほど(笑)。ダルカンジェロのフィガロも、アクは弱いが悪くない。本来完全な脇役であるバジリオを歌うヘンケンスは、その異常な目つきが見事で、4幕での普通なら退屈極まりないアリアも、キルシュの見事なパントマイムと相俟って、説得力溢れるものに仕上がっていた。
総括。ネトレプコの姿とボーナス・トラックのインタビューをまず愉しむ。そして次に「同じ台詞を口にしても、その意味はいかにも変わりうるものなんだ」という人生教訓として観る。それだけでも、このオネダンを支払う価値は十二分にあると、私は思うのだが…。