リパッティが残した録音は非常に少ないが、どれもその曲の魅力を汲み尽くした大変な演奏ばかりである。バッハ、モーツァルト、ショパンなどのその曲に肉薄した演奏などがこのように後世に残された事は私たちにとってかけがえのない遺産である。その中の代表的な演奏がここに収められている曲集である。
バッハはリパッティにとって重要なレパートリーであり、この他にも録音が幾つかあるが、この「パルティータ第一番」の格調高く、気品に満ち、躍動感に溢れた演奏は忘れがたいものである。この曲はそれほど大曲ではなく、イタリア様式の影響が強い底明るい曲であるが、彼はその本質をしっかりと見極めた上で淡々としながらも大変充実した音楽を奏でている。
モーツァルトのイ短調ピアノソナタは言わずと知れた傑作で、作曲者の深い悲しみの念と慟哭とが刻印され、それが見事に純粋な芸術に昇華された曲として名高いが、リパッティはここでも殊更情緒的、感情的な深刻さを表現する事無く、淡々と弾いているが、そこからこの曲の「疾走する悲しみ」が見事に捉えられ、「悲しみのクリスタル」と言うべき輝きを放っている。この曲を芸術的に演奏する事は大変難しいと言われるが(モーツァルトのピアノソナタはすべてそうである)、何ら鼻につく作為なしに自然とこれほど表現できるというのはやはり大変なピアニストと言わざるおえない。
そして、ショパン。彼にとってショパンは重要なレパートリーであり、特に最高の演奏と名高い「ワルツ集」などが録音として残されてはいるが、その数は非常に少ない。夭折してしまった事が最大の原因だが、やはりもっと多くの録音を残して欲しかった。その事は大変悔やまれる事である。けれども、この「ピアノソナタ第三番」は私がこれまで聞いてきた演奏の中で最も素晴らしいと感じたものである。録音の質はもちろんステレオ録音には遥かに及ばないが、演奏の質は他のピアニストを遥かに凌駕している比類なきものでなかろうか。第一楽章の高貴な演奏、第二楽章の鮮やかなテクニックと優美な情緒の同居、第三楽章のノクターン調の静寂と甘美、憂愁、第四楽章の力強さ、情熱、構成力。どれをとってもこの曲の本質に肉薄している。この曲はその多様な楽想と展開を処理する上で大変な難曲であるが、彼はすべてを手の内に収めた上で自然に表現している。まさに真に「美しい」という事ができる演奏である。
最後に収められたナディア・ブーランジェ女史とのブラームス「ワルツ集」も息がピッタリ合った良い演奏である。
このディスクにはリパッティが残した比類なき芸術の一部が古い録音ではあるが輝きを放っている。昨今の消費のためのディスクとしてではなく、芸術という歴史の遺産の記録としてぜひ、じっくりと耳を傾けて欲しい。