TVやネットでのスポーツ中継、新聞・雑誌でのスポーツ報道、スポーツ選手の出演するCMやバラエティなど、我々の日常をとりまく「メディアスポーツ」は、様々な価値/意味を付与された「物語」を伝達することで、我々の意識や感情の形成に関しソフトな権力を行使している。その実態を、国内外のカルチュラルスタディーズやスポーツ社会学の研究成果を縦横無尽に参照しつつ、著者独自の事例分析も加えて論じた作品である。全体的にとても手堅い記述がなされており、「教科書的」という形容が当てはまるように思われた。
国際スポーツは「ナショナリズム」と密接に関わるが、それは例えば、サッカーの日本代表における、オシム・岡田両監督の評され方の相違を分析することで明確になる。オシムの「他者」ぶりは「日本らしさ」を際立たせ、岡田の再登場は「日本らしさ」を再認識させたのだ。メディア上におけるスポーツ選手の扱い方は男性/女性で顕著に異なり、報道の質量の懸隔や選手の名前の呼ばれ方の違いに加え、女性選手は彼女を支える異性の存在(監督・コーチや父・夫)とともに語られることが顕著に多い。黒人選手は何かとその「身体能力」を称揚されるが、これは日本人の「組織力」とともに、特定の技能について精確に述べたものではなく、「人種」という幻想をめぐる「ステレオタイプ」を肯定・強化するための、ある種の「神話」である。
以上のような見識は既存の研究でも言われてきたことだが、終盤の「イチロー」論はかなり独創的で特に面白かった。周知のように、2009年WBCでのイチローはまさにヒーローであるとともに物すごくはしゃいでいたが、あのはしゃぎぶりは、かつての「孤高の天才」のイメージのままでは受け入れ難かっただろう。それが自然に受容されるに至った理由としては、2006WBC時に放映された佐々木との対談番組で見せた「素顔」をはじめ、イチローによる巧みなメディア戦略があった、と著者はみる。イチローがどこまで自覚的に立ち回っているのかは議論の分かれるところだろうが、著者の論証を読んでいると、確かにイチローのメディアを通した印象操作の力は抜群であるな、と納得させられる。
終章では、このようなイチローとの対比で、より「日本人的な」ヒーロー像を満たしてくれる「松井」についての考察がなされ、こちらも大いに肯けた。ジャーナリストらしい子気味のよい文章によって、スポーツ(選手)をめぐる言説やイメージに対する批判的なスタンスの取り方が明快に示されており、素晴らしい。