精神科医として臨床に携わるとともにラカン派の観点からサブカルチャー方面への著作も多数ある斎藤環。本書は彼によるメディア論集成。だがその主題となっているのは、タイトルにもあるように「メディア論はいかにして(不)可能か」を議論するという逆説的なものになっている。
著者の主張とはつまり、あらゆるメディアは言葉という不確定で不明瞭な「メディア」をインストールした「人間」によって扱われるが故に、つねにすでにそれ自体不確定、不明瞭なものにならざるを得ない。ラカンが「女は存在しない」と言う意味において、著者は「メディアは存在しない」と論ずる。そして言葉こそが「究極のメディア」であるため、マクルーハンを主とするメディアによって人類が変容を来すと考える「内破主義」を著者は否定する。
本書は他に、ジジェク、そして西垣通の「基礎情報学」への批判的検討を施す論文も収められている。とくに後者に対しては、なんと批判の対象である西垣による「斎藤環氏の"基礎情報学批判"にこたえる」も掲載されていて、両者の主張が激しく交錯…しているとは言い難いがスリリングではある。皮肉なことに両者のやりとりのこの「通じてなさ」こそが、上記のような斉藤の本書での最大の主張、「透明な媒体としての『メディアは存在しない』」ということを実証しているみたいだ。
他にも、この本を手に取った多くの読者にとって目玉なのは、なんといっても著者と東浩紀、大澤真幸の三者による鼎談だろう。話題は多岐に渡っているため、内容は実際に手にとって読んだいただきたいところだが、相変わらず「動物化」だの「シニシズム」だのの言葉が飛び交っている(それはご想像通りでしょ)。齋藤は本書冒頭で象徴界の実体化を批判しているが、「動物化」や「シニシズム」をあたかも実態のように語るのもどうなのだろう。本人たちには自明すぎてそのことに気付かないのかもしれないが、読んでいてすこし不気味ではある。
そういう観点から「現代思想」を取り上げた本がこちら→『
〈宗教化〉する現代思想 』