『メキシコの青い空』というタイトルは、ピンとくる人とこない人の差が大きいだろうが、あなたが「ピンとくる」派であれば、ぜったいに読んで損はない。1985年のワールドカップ・アジア最終予選の韓国戦から2006年のドイツ大会決勝までを、NHKの山本浩アナが実際に放送で発した「ことば」を織りまぜながら振り返った本だ。
山本さんの実況といえば、「東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいているような気がします」といった、ちょっと詩的なオープニングのセリフが注目されがちだが、すばらしいのはそれだけではない。この本を読むと、プレーのなかでとっさに口にしていることばがじつに適確で、完璧なリズムをもっていることががわかる。実況のことばを読むだけで、プレーの場面を頭に描くことができるのだ。たとえば、日本がワールドカップ初出場を決めたジョホールバルで発した次のようなことば。
〈中田。名波、中田が出る。中田が出る。中田が出る。中田の。角度がないが。シュートチャンス。最後は、岡野。あっ、ふかした。頭抱えました、岡田監督!〉
ことばが動いている。〈中田が出る〉を3度続けたあとで、〈中田の〉と止める。のみこんだことばは何だったか。〈角度がないが〉で再び止める。その瞬間のプレーにかぶせるには、これで十分だったにちがいない。
この本のあちこちで山本さんは、経験から獲得した実況の極意に触れている。〈プレーの最中には、コントロールしながら息を使う。ちょうどスイカの種をはき出すような要領だ。「ぷっ。ぷっ。ぷっ、ぷっ。ぷっ、ぷっ、ぷっ、ぷーうっ、ぷっ」〉。そのうえで〈試合は盛り上げるものではない。それなりの試合はひとりでに盛り上がる〉ともいう。若いスポーツアナは、このことばを大きな紙に書いて机の前に貼っておいてほしい。
試合を終えた日本代表がホテルの部屋で車座になって宴会をやっていた80年代。「オフサイドラインの白い線が私には見えないが」と視聴者が放送中に電話をしてきた90年代。そんな時代を経て、日本サッカーは〈世界〉の舞台へのぼることができた。本書はその20年間をつづったユニークな日本サッカー史であり、その年月を山本浩の「ことば」とともに過ごせたことがどれだけ幸運だったかを教えてくれる。