物語は、社会や周囲の人間を軽蔑しきったヴァシリの視点から一人称でシニカルに語られていきます。
そして、当然ヴァシリは、自分の行動を正当化しようとします。
しかし、その一方で、作者は主人公のナイーブさを一人称の語りのなかにそっと忍びこませています。
たとえば、恋人テチヤーナに対する描写の箇所。
だからテチヤーナは、十八で、はちきれんばかりに健康で、(中略)信じられないくらい無邪気だった。抱きしめると一抱えもあって、裏返すと広い背中が馬の毛並みのように輝いて、肌は柔らかいというより針で突いたらはじけそうで、こんがり焦げた焼き菓子のような匂いがした。
ここなんていわゆる19世紀ヨーロッパの大衆小説の典型的な修辞で、恥ずかしくなるような紋切り型の連続です。かつて『皆殺しブックレビュー』で、作者がデビッド・ロッジの評論を紹介していましたが、底意地の悪さはまさにロッジ的です。
ある女性評論家が、この主人公と作者は似ていると言っていましたが、それは間違っているような気がします。
作者のほうが主人公より二枚も三枚も上手です(というより、物語と登場人物の操り具合がすさまじい)。
その後、ヴァシリのヘタレっぷりは、どんどん顕在化していきますが、前半部分の最後で、ついに信頼していたシチェルパートフという資本家に7ページに渡って罵倒されまくることで、彼のダメさ加減は、読者の前にすべてさらけだされます。
と、このように、シニカルでニヒリストであるはずのヴァシリのヘタレさが徐々に明らかになっていくというかなり難易度の高いベクトルが、前半部分の修辞と行間には巧妙に織り込まれています。しかも一人称視点であるにもかかわらず…。これだけとってみても「ミノタウロス」は傑作だと思います。