端正なたたずまいを見せながらも、この本は残酷さを持っている。
この本を読んだのちになお、ミニマル・ミュージックに対して新鮮な興味を抱き続けることは難しいのではないか、と思う。増補にあたって著者が加えた、やや冷めた調子の文章が、そのような印象を強くする。
ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、フィリップ・グラス、スティーブ・ライヒという4人の作曲家について概説的に書かれた文章と、ミニマル・ミュージックの可能性を開いていくような考察を行った文章がこの本の初版には収められていた。しかし、初版刊行から約10年を経て増補版に加えられた文章を読んでみて分かるのは、ミニマル・ミュージックが持っていたかもしれない可能性についての思考が著者によってその間に継続されることはなかったということだ。もちろん、著者の関心の移行ということもあるだろう。しかし、むしろミニマル・ミュージックの可能性には限界があったとみるのが妥当ではないかと思う。
たとえば、演奏による共同体といった可能性に著者が言及しているのは面白い。しかし、同様のことならば、フリージャズにおいても強い説得力を持って指摘しうるだろう。また、演奏時における共同性の形成は示唆に富むと思うけれども、それを演奏していない時における共同性にまで拡大するのにはかなりの困難を伴うことが予想される。さらには、音楽を通じた共同性の形成ということになれば、演奏者と聴衆との共同性にまで視野を広げなければならなくなるだろう。初版において著者が示唆していた可能性は、ミニマル・ミュージックのみが特別に孕んでいたものではなかっただろうと思う。このような事情を踏まえて、増補版を刊行するまでの約十年の時間を経てもなお、著者自身は可能性を示唆するにとどまらざるをえず、展開することがなかったのではないかと推測する。
本書を読むことを通して、その可能性について言及されながらも思考がさらに展開されることがなかったからこそ、ミニマル・ミュージックの可能性には限界があったのだろうということが強く印象付けられる。本書には、残酷にも、ミニマル・ミュージックの思考と展開、さらにはその限界までが示されてしまっている。