本書は、『監獄の誕生』を中心的に取り上げつつ、フーコーの思想を紹介しようとするものである。巻末には、参考文献や読書案内が添付されている。
'1「フーコーの世界へ」では、本書の問題関心と構成について述べる。著者によれば、フーコーはその思想と活動を通じてものごとの価値を変えようとした。では、『監獄の誕生』はどのように価値を変えようとしたのか。さらに、それと前後してフーコーはどのような活動に携わり、『監獄の誕生』以降そこから来たテーマをどう展開したのか。本書はこれらの問題について取り組む。
'2「身体刑とその批判」では、『監獄の誕生』第一部「身体刑」を中心的に取り上げる。『監獄の誕生』におけるフーコーの問題関心は、「(多様な刑罰の中で)なぜ監獄なのか」という古典的な問いにある。そして、「身体刑は野蛮」であるという従来の見方を疑問に付し、「物質的な」次元からこの問題に答えようとする。
'3「規律権力」では、『監獄の誕生』第二部「処罰」及び第三部「規律」を中心的に取り上げる。フーコーによれば、刑罰に関して次の3つの体系があった。古典主義時代の身体刑、啓蒙主義的な刑罰、そして監獄である。そして、監獄が近代において主要な刑罰になった理由を、「規律」の「系譜」を辿ることで明らかにする。
'4「近代国家と統治」では、『監獄の誕生』以降のフーコーについて、「規律/ポリス/国家理性」をキーワードに論じる。『監獄の誕生』において、「ポリス」は規律が浸透する機構の一つとして位置づけられている。しかし、フーコーはその後、近代国家の特異性を「統治性」の観点から研究する中で、「国家理性」という17世紀の議論を引き合いに出しつつ、ポリスと規律権力をその一部として位置づけるようになる。
'5「監獄ふたたび」では、『監獄の誕生』第四部「監獄」と当時のフーコーの政治的活動を取り上げる。そして最後に、フーコーに取り組む難しさと魅力について述べる。監獄の効果はそれが導入された当初から疑問視されていた。それにもかかわらず、監獄は現在に至るまで主要な刑罰の場となっている。フーコーはその理由を、監獄の失敗を「別の次元での権力の戦略」として解釈し、ブルジョワジーによる政治的装置として説明する。
以下、簡単な批評。
0) 「啓蒙主義の刑罰改革」や「監獄の失敗」に関する説明は非常に分かりやすく、有益である。フーコーを陰謀論として解釈することを批判しているところがよい。また、「日常性」から思考する重要性は納得できる。全体的に読みやすく良書である。
1) なぜ『監獄の誕生』なのか。本書では、フーコーがなぜ監獄を選んだかについて説明しているが、著者がなぜそれを選んだかについては明確に説明していない。『監獄の誕生』がフーコーにおいて重要な著作であり、それを通じてフーコーの多くを理解できることは本書を通じて納得できるが、だからといって我々にとっても重要であるとは限らない。
2) 古典主義時代について。本書では、古典主義時代をフランス革命以前の絶対王政期と同一視している。では、なぜフーコーはわざわざ「古典主義」という語を使用するのか。歴史学において古典主義時代という語はあまり一般的とはいえない。フーコー自身の時代区分が従来のそれとは異なっていることと関係しているのであろうが、本書はこの点に関してほとんど触れていない。
3) フーコー批判について。本書では、フーコーの示した歴史的変化は大まかな趨勢として歴史学において認められているという。しかし逆に言えば、フーコーは歴史的変化について過度の一般化、単純化をおこなっている。本書はこの点に関して、フーコーのアマチュア性を指摘するのみで批判的な検討はなされていない。
4) 「伝記」について。本書では、フーコーの性的嗜好や幼少/青年時代の体験を彼の思想と直接関連づけることを批判し、フーコーの著作を「現在」という同時代的な状況に位置づけることを主張する。なるほど確かに著者の主張は納得できるが、しかし「現在」と関わる過去の歴史の基準はどこにあるのか。すなわち、全体的なものと個別的なものとの関係をどう捉えているのか。