日本語のwikipediaにある項目「ミシェル・フーコー」には、こう書いてある。
「(…)従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であったが、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。例えば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた」
上のように「生の権力」と福祉国家が同一視されると、福祉国家の凋落が誰の目にも明らかな現在「フーコーの権力論はオワコン」ということになってしまいかねない。フーコーはこの講義で統治テクノロジーとしての新自由主義を分析しているのだから。1979年はちょうどサッチャー大統領が誕生した年であり、翌年レーガンが続いている。当時のほとんどの社会批評がまず現代社会を「消費社会」と見做していたことを鑑みれば、次のような発言を含むこの講義は「恐るべき先見の明」である。
「別の言い方をするなら、この新自由主義的統治術において、問題は、社会を、商業的価値および形式から出発して規格化し、規律化することなのでしょうか。大衆社会、消費社会、商品社会、スペクタクルの社会、シミュラークル社会、速度社会といったモデル、ゾンバルトが一九〇三年に初めて規定したモデルに逆戻りするのではないでしょうか。私は全くそうではないと思います。(…)獲得が目指されてるのは、商品効果に従属した社会ではなく、競争のダイナミズムに従属した社会であるということです。スーパーマーケット社会ではなく、企業社会であるということ。再構成されようとしているホモ・エコノミクス、それは、交換する人間ではなく、消費する人間でもありません。それは、企業と生産の人間です」(181)
長い引用となってしまったが、フーコーは当時の社会批評を名指しで批判している。
ここに登場する「企業と生産の人間」としての「ホモ・エコノミクス」こそ、まさに新自由主義的「生政治」の対象なのである。そしてフーコーは、ドイツ、フランス、アメリカにおいて、どのように新自由主義的言説が発達していったのかを、入念に分析している。その中で、彼の代名詞と化した「パノプティコン」「規律訓練」といった事柄と、ここで問題となっている統治性との違いを強調している。
結局この具体的分析に時間をかけすぎた余り、生政治そのものを論じる時間がなくなってしまうが、それでも十分過ぎるほどに素晴らしい出来である。国家理性の衰退、負の所得税とは何か、といった話や、アメリカにおいて、経済学――ホモ・エコノミクスという人間像――が市場経済と直接関係のない場面にまで応用されていくところは圧巻である。日本語訳であっても、フーコーの不快感がはっきり伝わってくる。
この講義は早すぎた。今、時代がフーコーの分析に追いついたとさえ言える。悲しいことに。