内容紹介
孤高のピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの貴重な演奏模様を捉えた、イタリア放送協会(RAI)提供の歴史的映像。
録音嫌いとしても知られるミケランジェリが、厳格な条項を定めた上で承諾したテレビ放映用の収録で、彼の愛奏したドビュッシー、ベートーヴェン、ショパンの有名曲を余すところなく収めた映像シリーズ。いずれもシングルテイクによる圧倒的な演奏で、壮年期のミケランジェリ究極の美学を俯瞰することができます。マスターテープの入念なリマスタリングにより、リアルな音質と画質を再現。
(ノーツ:鈴木 淳史、日本語字幕〔Disc 3 特典〕:井内 百合子)
録音嫌いとしても知られるミケランジェリが、厳格な条項を定めた上で承諾したテレビ放映用の収録で、彼の愛奏したドビュッシー、ベートーヴェン、ショパンの有名曲を余すところなく収めた映像シリーズ。いずれもシングルテイクによる圧倒的な演奏で、壮年期のミケランジェリ究極の美学を俯瞰することができます。マスターテープの入念なリマスタリングにより、リアルな音質と画質を再現。
(ノーツ:鈴木 淳史、日本語字幕〔Disc 3 特典〕:井内 百合子)
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
ホロヴィッツなどと並ぶ、20世紀を代表するピアニストのひとりであるアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの貴重な演奏模様を捉えたシリーズのBOX。ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシーといった名作曲家の楽曲を全23曲収録。
内容(「Oricon」データベースより)
孤高のピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの貴重な演奏模様を収録したDVDシリーズ「ミケランジェリ・プレイズ・ベートーヴェン」「ミケランジェリ・プレイズ・ショパン」「ミケランジェリ・プレイズ・ドビュッシー」の3作品を収録した3枚組美麗BOX。初回生産限定。
出演者について
演奏者プロフィール
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ (1920-95)
1920年1月5日、北イタリアのブレシアに生まれる。父より、三歳でヴァイオリン、四歳からピアノの手ほどきを受け、ヴェントリ音楽院ピアノ科へ入学。十歳のときにミラノのヴェルディ音楽院に移り、ジュゼッペ・アンフォッシとキメリに師事した。音楽院を首席で卒業したあと、ピアノを続けると同時に医学のコースへと進学。1939年に第1回ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝、審査員だったアルフレッド・コルトーは「新たなリスト」と絶賛した。その後、ボローニャのマルティーニ音楽院のピアノ科主任教授として招かれ、ピアニストとしてのキャリアを開始。第2次世界大戦ではイタリア空軍のパイロットとして参戦、ドイツ軍の捕虜となったが、脱走してレジスタンスに加わった。このときの古傷が、後のコンサート・キャンセルを誘発する原因の一つという指摘もある。1945年に演奏活動を再開、ヨーロッパ各地で成功を収め、世界的な名声を得た。1952年から59年にかけて、病気のために演奏活動を中断。活動を再開してからは、ボルツァーノ、シエナ、アレッシオ、ルガーノでマスタークラスを開くなど、後進の指導にも力を注いだ。録音はEMIやドイツ・グラモフォンなどに行っているが、甚だしく消極的だったため、ライヴ録音が海賊盤として出回る結果になった。また、スピードマニアとしても知られ、ミッレ・ミリアにカーレーサーとして2回参加している。1973年以来、4度来日して演奏会を行った。1980年に来日したときは、5回の演奏会のうち4回を楽器の不調によりキャンセル。マネージメント会社がそれを訴えたことから、日本への不信感が募り、日本人と同じ舞台に上がることを拒んだこともある。1992年に指揮者のセルジュ・チェリビダッケに促される形で再来日、予定の3回のうち2回のリサイタルを行った。翌年にも来日公演が予定されていたが、病気のためにキャンセル。この年に行われたハンブルクの演奏会が最後になり、その2年後の1995年6月12日、ルガーノにて息を引き取った。
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ (1920-95)
1920年1月5日、北イタリアのブレシアに生まれる。父より、三歳でヴァイオリン、四歳からピアノの手ほどきを受け、ヴェントリ音楽院ピアノ科へ入学。十歳のときにミラノのヴェルディ音楽院に移り、ジュゼッペ・アンフォッシとキメリに師事した。音楽院を首席で卒業したあと、ピアノを続けると同時に医学のコースへと進学。1939年に第1回ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝、審査員だったアルフレッド・コルトーは「新たなリスト」と絶賛した。その後、ボローニャのマルティーニ音楽院のピアノ科主任教授として招かれ、ピアニストとしてのキャリアを開始。第2次世界大戦ではイタリア空軍のパイロットとして参戦、ドイツ軍の捕虜となったが、脱走してレジスタンスに加わった。このときの古傷が、後のコンサート・キャンセルを誘発する原因の一つという指摘もある。1945年に演奏活動を再開、ヨーロッパ各地で成功を収め、世界的な名声を得た。1952年から59年にかけて、病気のために演奏活動を中断。活動を再開してからは、ボルツァーノ、シエナ、アレッシオ、ルガーノでマスタークラスを開くなど、後進の指導にも力を注いだ。録音はEMIやドイツ・グラモフォンなどに行っているが、甚だしく消極的だったため、ライヴ録音が海賊盤として出回る結果になった。また、スピードマニアとしても知られ、ミッレ・ミリアにカーレーサーとして2回参加している。1973年以来、4度来日して演奏会を行った。1980年に来日したときは、5回の演奏会のうち4回を楽器の不調によりキャンセル。マネージメント会社がそれを訴えたことから、日本への不信感が募り、日本人と同じ舞台に上がることを拒んだこともある。1992年に指揮者のセルジュ・チェリビダッケに促される形で再来日、予定の3回のうち2回のリサイタルを行った。翌年にも来日公演が予定されていたが、病気のためにキャンセル。この年に行われたハンブルクの演奏会が最後になり、その2年後の1995年6月12日、ルガーノにて息を引き取った。