この本を最初に手にとったのは、まだ中学生のころだったと思います。そのときの本をまだ持っています。「断片的感想、美貌ノート、散文詩の一節(・・・)、日記、手紙などを一冊にまとめ上げた手記体の小説」とカバーの宣伝文にあり、明確なストーリーがないようなので、きっとむずかしいのだろうなと思いつつ読み始めたのですが、冒頭の一節ではまりました。
「人は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし、ぼくはむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。」
続けて描かれるパリの街頭の描写は、都会の華やかさはまるでなく、そこに住まう人々は孤独で、互いに語り合うこともなく、己の運命とだけ向き合わされているような貧しい人々ばかりなのです。そんな病的なまでにモノクロームの描写にとらわれたのは、大人になり始めた私の心の中の孤独とあまりにもぴったり響き合うところがあったからです。
この本を読んだことはその後の私の人生を決定したということができます。都会の中の孤独な生の予感。自分自身の死を死ぬために従僕たちや猟犬を引きつれ、大騒ぎして屋敷のなかをあちこち病床を移してまわった、主人公の祖父、侍従ブリッゲのような、壮絶な死は望むべくもなく、無名の死を死ぬのなら、せめて自分が生きた証を作らなければならない。
まずは勉強していい大学に入ろう。その中で自分が自分である生を見出していこう。そう決めて入った東京の大学で見えてきた未来は、マルテのような不安に満ちた生き方ではなかったものの、自分が生きた証を残せるほど確実なものではなく、卒業して、就職して、入った会社を辞め、別の会社に就職して、ただいたずらに時間だけが流れていきました。
でも結婚して子供ができると、最初の願望はあっさりかなってしまったような気がしました。単純な話です。以来この本は私から少し遠ざかりましたが、こんどは青春の感動の正体をもう一度確かめるために原文で読もうと、10年ほど前から辞書を片手に少しずつ読んでいます。
読み直して思うのは、ここに書かれてあることはぜんぜん古びていないな、ということ。核家族がさらに解体されて個人世帯が増え、グローバル化で雇用が不安定になった今日、マルテのように都会で孤独な生活を送っている人はかえって増えているでしょう。
いま孤独な人はこの本を読んでみてください。元気はもらえませんが、自分がいま孤独であることの意味は必ず見つかります。