われわれの時代の芸術、いや文化を根底から変えてしまったマルセル・デュシャンという大きな謎。それについて何かを考え、語ろうとする人は何をおいてもまず本書を読まねばならない。小さな本ですが、これはそんな絶大な価値を有する書物だと思います。
本書の出版は著者パスがノーベル文学賞を受賞した直後の91年で、それすらすでに20年前ですが、おさめられている2本の論考は68年と73年のもので、邦訳の雑誌への初出はそれぞれ74年と77年とあります。しかし、これはいささかも古い書物ではありません。どのページをとっても、確固たる理論的パースペクティヴと、作者と作品への繊細きわまりない眼差しに支えられた分析の数々はまったくアクチュアリティを失っていないし、たとえば読者は最近のティエリー・ド・デューヴ(
マルセル・デュシャン―絵画唯名論をめぐって (叢書・ウニベルシタス)、
芸術の名において―デュシャン以後のカント/デュシャンによるカント)の論考を先取りするかのような議論をも発見して驚くでしょう。
パスの巨大な知性は、我々の生きる(末期)近代の文化/芸術状況を大胆に裁断した上で、詩人ならではの胸を突くような美しい警句に乗せて次々と繰り出してきます。そしてそこに、同時代の困難を生きる芸術家としての大いなる共感に裏打ちされた見事な作品の分析が埋め込まれ、読者は感嘆のため息とともに何度もうなずくこととなるでしょう。
すべてのページが逐一引用したくなるような、はっとするような文章に満たされているのですが、ほんのわずか例を挙げると。たとえばこんな断言。「《レディ・メイド》は表現主義の多くの創造物のように、反芸術なのではない。それは芸術の平貨切り下げなのである。」あるいは以下のような、余人にはなし得ない、大づかみでありながら的確な歴史的認識。「たしかに中世の信仰は西欧形而上学の圧倒的な構築物によっておきかわられたが、カント以後、これらの構築物はすべて風化され、思考は形而上学よりは批判になった。われわれは今日、ひとつの批判はもっているが、観念、方法、体系はもっていない。われわれの唯一の〈観念〉(……)は〈批判〉である。」そして、この認識のもと、近代絵画の潮流と決別し、(ある意味で中世の宗教画家のように)絵画の外の〈観念〉を目指そうとするデュシャンの試みが必然的に出会う困難とそれを乗り越えるある種の戦略としてのアイロニー(自己否定、批判の批判……)の精緻な分析が繰り広げられるのです。
個人的には、たとえば「遺作」を主に論じた後段の論文では、(クロソフスキーのこれまた非常に興味深い
ディアーナの水浴を引き合いに出しつつ)神話分析に寄りかかりすぎている、と思ったりもしますが、そういった小さな不満以前に、とにもかくにもまず広く読まれるべき書物である点を強調したいと思います。
翻訳の原文はパスの原稿からのそれぞれ仏訳と英訳から行われ、重訳、ではあるのですがその結果、ひとつの書物のなかに宮川淳(仏文)・柳瀬尚紀(英文)・阿部良雄(あとがき)、という名前が並ぶという、ある意味奇跡のような贅沢な結果をもたらしています。どちらもいい訳だと(推測です)思いますが、特に宮川訳は、その、今読んでもまったく違和感のない理解の深さと文章の流麗さに、今さらながら舌を巻く思いがします。