柄谷行人は、知人に自身のカバーのすり切れた『資本論』をみせ、「ここまですり切れるほど資本論を読んだ人間は日本に他にいまい」(大意)と豪語したという逸話を残している。本書は、そんな日本の筆頭マルクス“読者”による、マルクス論。しかしそれは、これまで哲学者や経済学者がたどり着けた「初期」から「資本論」へと連綿とつづく「マルクス論」ではない。彼のように紙に穴が開くほど読み込んだからこそ、かすかに見える資本論からはみ出る「外部」、また別の「可能性」としてのマルクスである。逆接につぐ逆接の応酬が持ち味の文体だけに、読むのは大変だが、この人の他の著作に比べれば簡易で読みやすいか。
この本では、すでに著者がその後も長きにわたり考察していく「外部」の問題が顕在化している。異なる商品を同質な価値の平面におく、貨幣そのものに宿る形而上学を指摘した貨幣論。さらに資本主義そのものが内的に必然としている「外部」を指摘する商人資本論。またその問題の射程は価値形態論に限定されず、ソシュールを始祖とする構造主義言語学の「意味するもの」と「意味されるもの」にまで飛び火するのだが、根本にあるのはやはり、自明とされる根本の二元論、その歴史性と外部へ向けられる眼差しなのである。
また本書には、[[ASIN:4582764029 漱石論集成]]にも納められることになる漱石詩論、「階級について」と「文学について」も転載されている。これを読めば、キリスト教/儒教、西洋文学/漢文学という二つの二項対立の狭間でさまよい病みながらも、それでも「外部」への「可能性」を試みた漱石像が浮かび上がっていく。