礒山氏のライフワークに相応しい高度な研究書であり、バッハのマタイ受難曲鑑賞の為のガイドブックとしても計り知れない理解と助言を与えてくれる。著者はマタイを構成する全68曲に自らの訳と解説、そして可能な限りの解釈を示し、参照楽譜の断片も多数掲載している。しかも文章は平易そのもので、理解に難渋することのないのが特徴でもある。
本書を読み進めていくとバッハが如何に心血を注いでこの曲を作曲していったかという事を思い知らされる。著者がバッハの最高傑作と言ってはばからない理由がそこにあり、またその説明にも説得力がある。特に残された自筆譜から読み取る各場面の心理描写における調性の選択、そして形象や表象、数象徴については作曲家の天才的な、あるいは殆ど病的なまでの技巧が凝らされている事実には感動を禁じえない。何故なら私達が実際の音楽を聴いてそれを総て感知できる為には相当の学習が必要だからだ。つまりバッハは聴衆はともかくとして自分自身の為にこの曲を書いていたのではないか、という疑問さえ生じてくる。
興味深い逸話としては、当時のパート譜から判断される楽器奏者の持ち替え演奏だ。経済的にオーケストラの人員を増やすことがままならなかった事情から、彼らもフルに活用されていた。第1ヴァイオリンの奏者は持ち替えでブロックフレーテも吹いていたのだ。尚最後に置かれた同曲のCD批評には、彼の正直で忌憚の無い意見が述べられていて、どの演奏を聴くべきか迷っている方には最良の手引きとなるだろう。