前田慶次郎 1543年?~1612年?
父は織田信長の家臣、滝川一益の甥 益氏であり、慶次はその庶子。
母が前田利家の兄の利久と結婚したので養子となり義父と共に織田信長に仕える。
しかし利久は信長によって家督を利家に譲るように命じられ、利久・慶次親子は放逐される。
秀吉が天下を治めると、利久・慶次親子は利家より七千石の地を与えられいったん前田家に戻る。
しかし義父利久が永眠し、慶次は前田家出奔という前代未聞の事件を起こす。
その後、慶次は京都に仮の住居を求め、そこで文武の道に己を凌ぐ人物として、直江兼続に接して交流を深める。
兼続を生涯の友として認め、また謙信以来の武と信義を誇る上杉景勝を主君として仰いだのである。
上杉家では一千石で召し抱えられ、組外御扶持方という自由な立場にあったという。
その後米沢にて、堂森山北東のほとりに庵(無苦庵)を結び、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。
慶次は「かぶき者」としても多くの逸話が残されているが公家や文人とも交わって和漢古今の書を親しみ、
源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられ、連歌、茶道を学び、武術については弓馬はもちろんのこと、
十八般に通じ多くの戦場で大活躍したと伝えられている。
前田慶次郎道中日記より
「誰ひとり 浮世の旅を のがるべき のぼれば下る あふ坂の関」