セザンヌへの理解は近現代美術の大きな流れを掴む上で欠かすことはできない。本書はそういった意味で貴重なセザンヌ理解への手引きである。
これまでのセザンヌ論は、どちらかというと制作する主体としてのセザンヌに関わるものが多かったが、(たとえばメルローポンティ『眼と精神』)本書ではセザンヌの作品を巡って、(画家自身の伝記的内容にも触れつつ)より平明な語り口で興味深いアプローチが試みられている。
内容は主に『サント・ヴィクトワール山』に関する論述であるが、注目すべきはメルローポンティの論考(そしてグリンバーグ?)を援用しつつも、最終的には制作過程における現象学的論考を作品の内容から分離し、タッチおよび色斑の造形言語としてのその意味の解明に論点が移されている点である。 さらに、受容美学のエッセンスを加味し、<観者>という概念の導入によって、既存のセザンヌ考察にはない独自の作品論が展開されている。(受容理論の論理構造は意外とカントに近いものなのだが)
本書の論述の基底部分はフォルマリズムが支えていて、それがブラックやピカソなどの見解に若干、批判的な調子を帯びさせている理由ともなっているが、あるいはそれは分析的認識論の抱える矛盾と言うよりはベームが下地としているのであろう受容美学的歴史認識の限界なのかもしれない。(このあたりに潜む問題に関してはデリダなどは非常に神経質であったと思う)
ともあれ、総じて客観的で良心的なセザンヌ論である。