「適当」という文字を改めてみれば、「適度に的を得ている」という言葉になるのに、普段「適当だな」とか言うと、かなり否定的な響きに使われている感じがする。
「となりの山田くん」で高畑監督が意味したのは、ジプリの前作である宮崎監督の「もののけ姫」に対してのアンチテーゼということらしい。
「生きろ!」ではなく「適当」というわけだ。
それでは「となりの山田くん」の「適当」はどうかというと、ある意味、時代の病に深く関わった必然としてあらわれ現在に再生されたものではないかという気がする。
「生きろ」で力が湧いて来る人は、きっかけがあれば自分の足で立ち荒野にひとりで旅することもできる人だ。
一方「慰め」が関係から必要とされる人の心の疲労は、実はもっと身近で日常的で切実な出来事かもしれない。
そんな人は自分の中から「適当」の感覚の記憶の浮上を必要とする人だろうか。
先入観を捨て、実際の「頑張る姿」を直に見つめてみると、意外に自分から望んだものなのか、環境と刷り込まれた観念より圧力を加えられて、むりじいしている姿なのかわからなくなるものかもしれない。
「適当」は真ん中の「感覚」を意味するものだろう。
「勝つことの夢」、その過程が時に他者を排除し傷つける、容赦ないイボ猪の突進のようであったりすることもあるかもしれない。
それは他者のみならず自らもを破壊することもありうるかもしれない。
「適当」はそうテキトーに誰もが持ち合わせているとは言えない、絶妙なバランス感覚だ。
そんなめんどくさい映画なのかと思われるとこまるが、映画とは全く別物の感想、変な先入観を与えたらこりゃ適当じゃない。
実際、子供達がよく笑う楽しい日常的なギャグセンスの笑いに満ちた映画である。
お母さんの声優役、朝丘雪路が素晴らしい。それから矢野顕子の素敵な歌も楽しい。