もちろん、本書においてもその切れ味はいささかも鈍っていない。タイトルにある「ホモ・サケル」は「聖なる人間」と直訳できる言葉だが、著者はこれを「剥き出しの生(=主権権力の外に位置する者)」という意味に敷衍(ふえん)し、収容所や安楽死といった困難な課題へと立ち向かおうとする。直接の着想源としてはフーコーの「生政治」、シュミットの「例外状態」、アーレントの「全体主義」などの諸概念などを指摘しうるが、著者はここにカフカの「法」やバタイユの「供儀」、さらにはベンヤミンの「暴力」などについての検討をも加え、緻密な参照関係のもとに「政治的な生」と「生物学的な生」の区分を分析していく。その鋭い洞察は、歴史的な奥行きを感じさせると同時に、「9.11」やイラク戦争という喫緊の現実に対しても有効であるに違いない。
近年、最も大きな反響を呼んだ政治哲学の書物として真っ先に名の挙げられる1冊がネグリとハートの『<帝国>』であるが、注意深い読者であれば、同書のキー概念である「マルチチュード」に紛れもなく「ホモ・サケル」との共鳴を聴き取ることだろう。もちろん、「ホモ・サケル」の可能性はまだまだ汲み尽くされたわけではない。今後の展開については、著者が予告している続編の刊行を静かに見守ることにしたい。――2003年11月(暮沢剛巳) --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
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ところが、生政治に起源は遥かローマに遡るのだった。生政治とは、ギリシアでは政治とは関係のなかった人間の生物学的な生(ゾーエー)に配慮する政治のことであるが、ローマでの政治は、剥き出しの生物学的な生としてのホモ・サケルを締め出し殺害可能な対象とすることによって、都市という政治的空間を作り出した。
近代までは、王が主権者であることによって、剥き出しの生は共同体の外部に位置したが、近代民主主義では、剥き出しの生としての身体が主権の地位に踊り出ることによって、誰もが潜在的に殺害可能な対象となる。その究極的な象徴は収容所なのだ。そのほか、たとえば、安楽死は剥き塊??しの生は政治の対象となる特権的な例でもある。
このように、現代では公と私がまったく区別できなくなったのだが、著者は、これをもっぱら政治的な理由から説明している。だが、経済的な要因はそれほど軽視してよいものなのかという疑問は残る。とはいえ、政治がつねに排除を前提としているという視点や、剥き出しの生という例外状態が一般化しているという洞察は、昨今の情勢を適切に説明してくれる。
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