ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」はバッハのロ短調ミサ曲と並んで、古今東西最大のミサ曲である。それと同時に、その規模の大きさ、大胆な語法、伝統的教会音楽という枠を超えた普遍性を備えた、西洋音楽芸術が到達した最大の高みでもある。
この曲はベートーヴェンのパトロンでもあり、芸術上の弟子であり、何よりも精神的に彼を支えた親友でもあったルドルフ大公が枢機卿に選出され、続いてオルミュッツの大司教に任命されたのを祝う就任式のための音楽を作曲する事が直接のきっかけとなって始められた経緯があり、第九交響曲の作曲とも並行して行われた。何とか就任式に間に合うように筆を進めたが、結局、この曲を単なる就任式のための音楽を超えた普遍的芸術にまで高めようとするベートーヴェンの音楽に対する理念のために完成したのは就任式の三年後であった。けれども、その三年が如何にこの曲をこれほど偉大な傑作にしたか想像するに余りあるほどである。ベートーヴェン自身も彼の書簡で度々、「この曲は私の最大の作品である」と自負している事からも分かるであろう。また、冒頭には有名な言葉「心より出でて-そして再び-心に入らんことを」と記されており、今日でもこの真意は判明していない。これと同じような事は最後の弦楽四重奏曲の冒頭にもあり、これもはっきりと判ってはいない。ベートーヴェン特有のユーモアなのか、それとも彼が晩年たどり着いた深遠な思想なのか、もはや私たちにはその真意は理解できないが、それらの言葉を介さなくとも、彼の音楽を聞けば自ずとその深遠な芸術的思想を垣間見ることができるだろう。
この曲は大変複雑であらゆる要素が多様にして自在に展開されており、対位法を中心とした交響的構成である為、第九交響曲よりも遥かに解かり難いのであるが、対位法展開の頂点と言うべきグローリアの「主のみ聖」、楽曲の頂点とも言うべきクレドの「三日目によみがえり」、崇高な祈りであるサンクトゥスはとりわけ素晴らしく、聴き手に痛烈な印象を植えつける。また、ベートーヴェン的な筆致が特に感じ取れるのは、天空から聖霊が降り注ぐような独奏ヴァイオリンが終始伴う「ほむべきかな」ではなかろうか。ここにはヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章にあった浄福の精神が宿っている。ベートーヴェン自身の個人的信仰の告白がここに見られるように思う。第九交響曲の第三楽章とはまた異なった趣を持っている。共同体的理念ではなく個人的祈りがここに表現されているのではないだろうか。
そして、このような偉大な曲をクレンペラーはそれに相応しく何と偉大な演奏をしている事か。決して全体のテンポは他のベートーヴェンの楽曲の場合のように遅くはないのだが、壮大なゴチック、いや天空を仰ぎ見るかのごとき偉容を誇っている。フーガの部分などは決して緻密に細かく細分して捉えるのではなく、この曲の真髄である交響的全体像を明快に捉え、しだいに高まり行く交響的音響として解釈している。そのため、これほどの壮大さと偉容が感得されるのであろう。また、緩徐部分でも殊更深刻になる事はなく、静かに朗々とした崇高な趣を湛えている。これほどの音楽的完成度は稀であろうし、何よりも音楽を超えたベートーヴェンの理念と精神が聴き手に迫ってくる演奏は他にはないであろう。時代様式うんぬんを超えたものがこの演奏には秘められているのである。
確かに録音はフォルテで音が割れる部分はあり、若干響きの薄い事も感じられなくはないが、これほどの偉大な演奏の前ではそれはちっぽけな事に過ぎない。ベートーヴェンが楽曲冒頭に掲げた思想をこの演奏を通じて一人一人が考えることが大切なのではないだろうか。ベートーヴェンの音楽は音楽と聴き手という二つに分かたれたものを一つにする力を持っているのである。彼がこの曲を作曲したのは単に自らの主観的理念を人類に伝えるためだけでなく、この曲を通じて教会という枠を遥かに超えた神への信仰において人類をこの曲の「交響的な有機体」の如く、一つに結び付けようとしたためでもないだろうか。