ほとんど何の知識もなく、このCD(第7番)を聴いて、
(まるで完璧な技術を持った学生オーケストラが演奏しているようだ)
と思った。
天下のドイツグラムフォンから出ている、メジャータイトルなのだから、
まさか学生が演奏しているとは考えなかった。
しかし、あとで調べると、実際に南米ヴェネゼーラの
「シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ヴェネゼーラ(SBYO)」
という25歳以下の青年たちで結成された交響楽団が演奏していた。
オーケストラの音色は澄明で、各部の輪郭はくっきりとし、旋律もよく歌う。
この曲が持つ躍動感が、演奏者たちの若さによって自然に表現されていく。
大家や巨匠の場合、往々にして、その名前(彼ら自身の自尊心その他)のために
演奏は力が入ったものになり、特別な何かはそこにあるが、
音楽そのものが鳴り響くような感動は相対的に薄くなる(必然的に演奏者が前に出る)。
しかしSBYOの場合、背負っている名前などない。
彼らはひたすら一心に音楽の中に入り、一体化する。
ベートーベンのリズム讃歌のような、ドュオニソス的スコアーがそのまま鳴り響く。
管楽器の咆哮も、打楽器の連打も、ベートーベン音楽が時に持つ、押しつけがましさやしつこさを
感じさせることなく、演奏者たちの若いエネルギーが自然に発散され、疾走する。
むしろ彼らの若いエネルギーが楽曲を追い越していくようなスピード感が現れる。
では有名な第2楽章はどうなるのか。
ドゥダメル+SBYOの緩徐楽章には、深い憂愁や、徒労感がにじむ。
生きることの苦しさ。その中に指す希望や歓びが、音の中から立ち上がる。
どうしてそうした演奏になるのか。
彼らが音楽のエリート教育の中から出てきた人々ではなく、ヴェネゼーラの貧民街の中で音楽と出会い、
育ってきたという背景があるからだ。指揮者ドゥダメルもその歩みをたどっている。
楽団員のほとんどが、プロフェッショナルなエリート教育の中から出てきた人々ではない。
困難な生活の現場である街やストリートと、彼らの音楽は直結している。
当然彼らが奏でる音楽は、カラヤン、アバド、クライバー等が響かせるものとは違ったものになる。
彼らにとって、第2楽章に刻まれた憂愁や、困苦の中の光は、生きる実感、現実そのものなのだ。
指揮者ドゥダメルは、ヴェネゼーラから生れたクラシック音楽界の逸材(スター)だ。
2004年の第1回マーラー指揮者コンクールで優勝している。
スコア解釈と、それをオーケストラから引き出す能力は、世界的なレベルにあり、
最も注目を集めるひとりになっている。
この7番の演奏を作曲者が聴いていたら、
最後の音が鳴り響く前に立ち上がり、拍手を送ったのではないだろうか。