本書を貫くテーマ。それはフルブライト上院議員がいったことば「Aroogance of power」である。これを日本語に訳せば「強大なパワー(軍事力、経済力、文化力)をもったアメリカの絶頂期にアメリカの政治を支配したエリートが持った全能感=驕り」とでもいうこととなろうか。そしてその驕りを象徴する人物としてフォード社の社長となったロバート・マクナマラとボストンの名家出身の大統領補佐官マクジョージ・バンディが取り上げられる。
マクジョージ・バンディは東部の典型的なエリート家庭に生まれ、アメリカの名門出身者がこぞって子弟を送り込むことで知られる全寮制のプレップスクール「グロートン」を経て、イエールへと進む。この本を読んでいると、アメリカではエリートとは、英国やフランスの貴族に似て、はじめから皆さん、大金持ちであることがわかる。日本では四民平等の絶対的「無格差社会」が理想とされ、親の財産や地位に関係なく、子どもは「客観的」な選抜試験を経て「公平に」選ばれなければならないかのような議論が多数を占めているが、欧州やアメリカでは高等教育とは支配階級の子弟が引き続き立派な支配階級になって庶民を訓育指導できるようなリーダーに仕立て上げるプロセスのような感じなのだ。事実、アメリカではコネ入学や寄付金を用いての裏口入学は「当たり前」となっている。アメリカの大学の言い分はふるっている。「入るのは勝手である。入学後、本学のレベルについてこれなければ、退学させるだけ」というものだ。
アメリカの絶頂期に社会に進出した東部名門大学を出たエリートたち。彼らは「最も聡明で優秀なひとたち、ベストアンドブライテスト」と周囲から期待されていた。しかし学校秀才は、必ずしも万能の天才ではないし、人類の霊長でもない。このことはわたくしも多くの書評に書いてきた通りだ。学校秀才は与えられた知識を効率よく吸収し吐き出すことにはたけている。しかし、ただそれだけのことで、学校の成績が良いからと言って、彼が必ずしも戦場で優秀な指揮官となれるわけではないし、政治家としてすぐれたリーダーシップを発揮できるわけでもない。何よりも重要なのは、学校卒業後、社会で苦労を重ねつかみ取った「hard won wisdom」なのであって、この経験を通じて獲得された叡智の欠けた「ただの学校秀才」は極めて危うい存在なのであることをハルバースタムは、まるで生体解剖していくようにひとつひとつ残酷なまでに本書で証明して見せてくれる。
学歴コンプレックスの塊だったジョンソン大統領は、当初こそ自分の政権にはせ参じた東部のエリート校出身者たちを畏敬の目で眺めていたが、時が樽につれ、「どいつもこいつもただの役立たず。プライドばかり高いくせに、いざという時に使い物にならない連中」とさげすむにいたったという。
司馬遼太郎さんが指摘しているように日本にも根強い「秀才信仰」がある。しかし、秀才が役に立つのは日本が後進国で、目指すべきモデルが明確で、そのモデルのまねをして成長する「キャッチアップ過程」のときだけなんである。日本が押しも押されぬ先進国となって、海図なき航海に乗り出すとなると、必ずしも学校秀才というだけでは、ものの役には立たない。リスクを取る度胸と、リスクを回避できる知恵、進むべき方向性を見極められる嗅覚を備えた者のみが「真のエリート」となるのである。こうしたことを考える上で、本書は有益な示唆を与えてくれる。
それにしても、こういう本を生み出せるアメリカって、つくづく侮りがたい偉大な国だなあ。ロシアからはこうした本は、出てこないもんなあ。まいて、あのうぬぼれの強い、唯我独尊の思い上がった中国おや。やはりアメリカこそが、今後とも、この地球での中心国家であり続けることも本書は予感させてくれる。