ブッダ釈尊が始めた根本仏教は、釈尊没後のアビダルマ仏教(釈尊の教義の体系化に終始し、小乗仏教と呼ばれた)を経て、大乗仏教へと変化する。その中で注目すべきは、アビダルマ仏教の時間論である。アビダルマ仏教の部派は20に及ぶが、代表的な部派は説一切有部と経量部である。
説一切有部の時間論は『三世実有・法体恒有』の断絶説であり、「現在は未来世から生じ、一刹那の間に存在した現在が滅すると過去世に入る」と説く。つまり「過去は過ぎ去ったものではなく、未来はまだ生じないものではなく、過去も未来も現在と同時に実在している」というものである。有部の主張は、「一つの存在を考える時、過去だけを根拠として考えることが合理的では無い(∵宿命論に陥るから)」という所から出ている。
一方、経量部の時間論は『現在有体・過未無体』の連続説であり、「現在のみが有体(実在)であって、過去と未来の法(存在物)は無である」と説く。有部とは全く逆である。つまり「有部のように過去の存在が過去世に留まっていれば、それは現在を生み出すことはできない」から「存在するのは、常に“現在の連続”のみである」というのである。
長らく対立した両者の説に対して龍樹は、『八不中道・諸法皆空』という変化説(i.e.中論)を提唱して、ブッダ釈尊の教法(i.e.縁起の法)に立ち戻らせようとしたのである。
その観点で第9章の記述を読むと、柔軟な発想を与えるつもりが、実は珍しい新規な概念に執着する原因を生み出しかねない。同様なことは第8章の記述にも言える。第8章は後期大乗仏教の性的密教(チベットの秘密集会タントラなど)の主張に極めて類似しており、性の貪欲を奨励するという勘違いを与えかねない。プレアデス聖人はこれら仏教の歴史にも影響を与えてきたのだろうか?