20世紀、それは数多の知識人が危機感を以って指摘したように、ひとつには「大衆の時代」
「ポピュリズムの時代」であり、ヒトラーやレーニンの台頭が象徴するように、ひとつには
抑圧的な全体主義、共産主義の時代であった。
ところで、古代ギリシアのプラトンはとりわけその著書『
ポリテイア(国家)』において、
すべて知を愛でる者=哲学者が政治や国家を操縦すべきである、と主張していたことは周知の
通りである。
こうした彼の言説が、20世紀に際しては、ときにファシストとさえ名指しされ非難を浴びる
こととなった。
本書では、20世紀ドイツ政治思想を中心に、プラトンをめぐる議論を追う。
この本に登場する人物の主張の大半というのは、プラトンのテキストは古代アテナイの
コンテクストではいかに解釈されるべきか、を追求するわけでも、現代の文脈に置き換えた
ときプラトンはいったい何を言っただろうか、を論じるわけでもない。無論、およそ2500年の
時を隔てた彼と現代との間の思想史の変遷を丹念に跡づける、などというひどく厄介な作業に
取り組むような謙虚さ、勤勉さもない。
彼らにあるのはただひとつ、プラトンのテキストに仮託して、いったい自分が何を言いたい
のか、でしかない。そこに共通のプラトン解釈の根底があるわけでもない。各々が各々の
プラトン像、より正確に言えば己の言説に従って捻じ曲げたプラトン像を披露するに過ぎず、
この巨人をめぐる言説として種々の論客を並べてはいるが、そもそも噛み合うはずもない。
忠実なテキスト批判に基づくプラトン解釈ならば、彼らを同列に並べて、その違いを吟味
することもできようが、ただ単にプラトンの名に託けて自説を披瀝しているだけなのだから、
そもそもプラトンの名前の下にかき集めたところで、そこに何らかの意味が生じようはずも
ない。そのあたりの調整を筆者が図った形跡もない。
悲しいかな、ここで列挙された議論のほぼすべてが、プラトンなしでも成立する代物。
少なくとも私としては、とりあえずオピニオンを揃えてみました、という以上の印象を何ら
受け取ることが出来なかった。
はじめにプラトンありき、ではなく単に、はじめに結論ありき。
いかに解釈の政治性が古典の宿命であるとはいえ、「プラトンの呪縛」というよりは、己の
議論を恣意的に捻じ曲げられて、あまつさえ彼の影響を全体主義に見出されるに至っては、
ひどくかわいそうな「呪縛されたプラトン」と述べる他ない、というのが私の感想。