色々とご託宣を並べて見せていても、著者の根底にあるものは、男の側に「甘酸っぱいときめき」と「ほどほどのエロス」をもたらしてくれた辺縁が失われたことへの私憤でしかない。
その心情については理解できなくもないが「精神的な傷」に対して、あまりにも鈍感な語り口では、読者の中に敵を作ることになりかねない。
また「辺縁」そのものも、それが有害無益な影響しかもたらさないなら、すべからく無くさねばなるまい。さすがに禁煙運動はいき過ぎだが、例えば社員旅行などに代表される職場での公私混同については、それが日本社会のしばりつけを強化・維持する働きがあるだけに、ないほうがいい。またセクハラについて「嫌なら断ればいい」というが、それでもやめないほどセクハラ男はずうずうしいのだ。
そもそも犯罪のような反社会的要素ほど、被害者の立場はないがしろにされている。それなのに被害者主体のほうを「被害者帝国主義」として否定するのは、本末転倒であろう。元々一神教的な「罪の意識」を持たない日本の社会では「恥の意識」でしか行動を律せず、近年ではそれすら失われつつある以上、被害者の視点に立った論拠は非常に大切なものと思われる。
一方で、専門家主体を「インフォームド・コンセント」への反論として主張する。これをブルマーに当てはめるなら「採用するしないは教育の専門家である学校側に一任すべし」とのことなのだろうが、日教組・文部官僚の双方が、今村城太郎氏のいう「心を育てない教育」を断行したことにより、学校教育そのものが信用を失ったという事実を忘れてはいけない。
それにしても「専門家主体」を主張する対症療法的な視座で、これまた対症療法にすぎないブルマー廃止を批判するあたり、滑稽ですらある。