ブニュエルらは脚本を作るにあたって、繰り返しということを重要視したらしい。
繰り返しによって、物語を観客の記憶に定着させる?もしくは繰り返しは喜劇となる(マルクスの言うように?)?
この映画にははじめから、終わりまでブルジョワジーしか出てこないのだが、さて、その秘かな愉しみとはなんだったのであろうか?
セネシャルの家に夕食を招かれたミランダ国の大使、テブノ、テブノ夫人、そしてテブノの妹が、セネシャルの家に着くと、セネシャル夫人は「明日のはずです」と言い放つ。どうやら、どこかで間違いがあったらしい。一行はセネシャル夫人も誘って、車でレストランに向かうと、なんと、その朝死んだという店主の遺体が隣に部屋の隣に置かれていた!
再び、一行は日を変えてセネシャル家に向かうと、セネシャル夫妻はセックスを邪魔されたくないので、窓から庭に逃げてしまい、一行は食事をあきらめてしまう。残されたセネシャル夫妻の元に司教が庭師として雇ってくれと訪ねてきて・・・。
客たちがなぜセネシャル家を急いで後にしたかというと、彼らは外交官を隠れ蓑に麻薬の取引をやっているのだ。
その後も、彼らが食事をしようとすると騎兵連隊がやってきたり、刑事が麻薬取引の疑いで来たり・・・。
そんなこんなのさなか、ある上等兵の兵営入りの日の思い出(殺人の思い出)や、ある刑事の思い出(殺人の思い出)などなどが挿入され、話の筋は、誰かの夢なのか、現実なのか分からなくなる。
やっと食事にありついたと思うと、今度はテロリストの銃により一行は殺されるのだが、それも誰かの夢で・・・。
最後の、田舎の一本道を横になってあるくブルジョワジー一行はいったいどこにむかうのであろうか?やはり食事?
オークションでブニュエルの「嵐が丘」を手に入れ、つい見てしまった「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」でしたが、やはり映画って面白いですねぇ。くすくす笑ってしまいました。