本書は現象学のフッサールによる入門書の体裁をとっているようだが、内容は極めて専門的であり、入門者にはいささかレベルが高すぎるだろう。
『ブリタニカ草稿』というように、最終決定稿に到るまでの全ての段階の草稿を掲載しているので、緻密に読んでいけばフッサールがいったいに「何にこだわっていたか」が分かる仕掛けになっている。
ハイデガーもこの「ブリタニカ草稿」の執筆部分には参加していて共同執筆となるはずであったが、最終的にはフッサールはハイデガーの書いた原稿を一切採用しなかった。
ハイデガーの『存在と時間』などの著作を読んでいる読者ならわかることと思うが、ハイデガーとフッサールの哲学はかなりスタンスが違う。
私はハイデガーが多くの偉大なる哲学者達に与えた影響を否定は全くしないが、フッサールと比較した時、ハイデガーの思想はそもそもの段階から手詰まりの状態になっているという気がしてならない。
『存在と時間』においても、「存在」について語るために「道具」などの存在や「現存在が持つ気遣い」というものをその説明要因として使用している。
つまり、ハイデガーは「存在」を語るために「存在より上位」の「もの」や「こと」で説明するのではなく、「存在を前提とした何か」で説明を企てていることになる。これは自己撞着であり、循環であるし、フッサールには当然ながら受け入れがたいスタンスであったに違いない。
私はハイデガーという人は「方法の誤謬」がそれを読む人たちに、インスピレーションを与えたという極めて「怪我の功名的」な仕事をした人物であると思っているのだが、どうだろうか・・・。
フッサールの現象学は今でも生き続けている思想だと思うし、現に「分析哲学」の源流にもなっていると、ダメットも言っている。
どうもハイデガーとフッサールを日本人が比較した時に、ハイデガーの方に分があるようなのだが、本書を読んでその考え方が間違っていることをぜひとも認識して欲しいと思う。