価格が変わって新商品として売り出されるたびに期待して見てしまう。
けれども、パッケージが変わらないということは、中身も変わらないのだろう。その度にがっかりしている。
これは、誠実に生きたいと願う人の気持ちに深く静かに浸透する、素晴らしい作品だ。
僕は今47歳。この映画の公開時には11歳。初めて見たのは、中学生の時、テレビの「名画劇場」で、以来、放送があるのを見つけては見逃してはならないと思い続けて来た。ビデオが普及してからはもちろん、録画もした。けれども、テレビ放送版は画面の左右がカットされている。明らかに構図が中途半端で不安定に見える。だから、DVD発売を願っていた。そして、発売時には喜んだ。
けれども、見てみると、全然違う映画に感じられてくる。あの、美しいセリフの数々が、なんて詰らない直訳調のセリフに変っているのだろう。字幕監修は高瀬鎮夫となっている。有名な人らしいが、「監修」って、なんだ。自分で訳さないで名前だけ貸しているの?誤訳は無いかもしれないが、学生が訳したような感じだ。終盤の名場面などは、確かに一語一語の意味は辞書に書いてある意味で訳されているが、一文に繋げると全く意味がわからないところもある。せっかく、法王が真の神のしもべとしてフランチェスコに美しい説教与え、同じ地平に立つ者として彼を敬うシーン。その名ゼリフも、どうしようもなくなっている。
古くからのこの映画のファンは他にも何人も、僕と同じようなコメントを記している。僕らは、あの美しい柴田香代子さんの名訳でこの映画を観たい。本当に美しい、魂の宿った言葉たちだ。この映画の世界を愛する気持ちがひしひしと伝わってくる。意訳も多い。でも、それでいいだろう。たとえば、終盤、法王とフランチェスコが交わす言葉。ヒバリのように自由に生きるということについてフランチェスコが語り「法王の教えを請いにローマに参りました。」と述べた後、柴田訳はこうだ。
「私に何が教えられると言うのかね。あなたは恵まれている。神の創造物を通して神へ近づく道を見つけた。」「理解してくれない人もいます。私たちは間違っていますか。不可能ですか。神の教えに従い生きるのは。罪深いことですか。どんな過ちを犯したか、教えて下さい。」「過ちは許されるのだ。人は原罪に囚われて大きなものを忘れている。生まれながらの純真さを。それを忘れてはならない。神の子どもたちよ、私は少し胸が痛んでいる。聖職を目指した頃は私も同じくらい純真だった。時の流れとともに情熱はうせた。しかも教会を守るという責任が重くのしかかっている。あなたを追い出す者たちを思いやったことは?」「何故、私を苦しめるのですか。」「富と権力にまみれてしまっているからだよ。清貧なあなた方に、恥じいるのだ。」
これがこのDVDでは、こうだ。
「私にどんな教えが与えられるのか、兄弟たちよ。あなたは神の寵を受け、野の鳥に神の声を聞くことが出来る。その上、何を」「素朴な人々は理解してくれますが、私たちに間違いは無いでしょうか。主の説かれた道を歩むのは、不可能でしょうか。私たちの罪は?そのことでお教えをいただきたいのです。」「過ちは全て許されるであろう。我々は原罪については神経質になるが、本来の善を忘れがちだ。それを心して避けなさい。あなたたちに会えて、喜びと同時に悲しみを感じる。聖職に就いた頃は私も皆と同じ気持ちだった。だが、時とともに熱意も薄れ、教会政治の業務に忙殺される身となった。だが、後に続く者がどうなるか考えたか。」「教えに変わりは無いはずです。」「私たちは富や権力の熱い殻をかぶっている。あなたたちの貧しさに、私は恥じる。」
ところどころ、会話もかみ合わない。もっとも素晴らしい、この場面においてさえ。
柴田さんの訳は、とても優しく温かく、そして、本当の意味で正確だ。当然、放送時のテロップも、『字幕「監修」柴田香代子』だなどと記されていない。
柴田訳での再発売を願う。若い人たちに、更に深く感動を味わい、もっともっとこの映画を知ってもらいたい。