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12 人中、11人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
ただ懸命に生きるだけ,
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レビュー対象商品: ブッダの道の歩き方 (単行本)
立松氏はちょうど、ご母堂が入院しておられて、大変苦しい状態の中で、スマナサーラ師と対談されているのですが、毎回、会う度に「自分はどのように母に向かい会えば良いのか。どうしてあげるべきなのか。この苦しい、悲しい思いをどうしたらいいのか」ということを相談し、もらったアドバイスを素直に聞いて、すごく元気になっている感じがします。スマナサーラ師の言葉もいいのですが、立松氏も人生の中で何度か苦しい目に会っていらっしゃるので、その言葉には含蓄があります。立松氏が日光の男体山という山に登って、体調を崩して、下山の途中で日が暮れてしまって途方にくれているときに、やはり、座りこんでしまっていたおばあちゃんに会って、でも、彼女は懐中電灯を持っていたので、お互いに皆で助け合いながら下山した、というエピソードが好きです。「人の救い」とはこんなものではないか、という氏の言葉に同感です。
1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
スッタニパータの「田を耕すバーラドヴァージャ」の真義とは?,
By vivekatrek (大阪府枚方市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: ブッダの道の歩き方 (単行本)
『スッタニパータ』を流し読みしただけでは、本当の意味は分からない。というよりも、ブッダ釈尊の基本的な教法が腑に落ちるほど分かった気分にはなれない。そう思った時に奮起して、釈尊の教法を釈尊の論理だけに従って、一つ一つ理解し体得することを心がけてきた。(1)宮元啓一氏の説く「輪廻のメカニズム」と「解脱のメカニズム」が四聖諦の「苦諦」と「滅諦」に対応することに気づくと、「集諦」とは「苦諦」から「滅諦」へ通じない環状線の存在と主要駅を示すものであり、「道諦」とは「苦諦」から「滅諦」に通ずる路線図の存在とそこを走る普通列車や特急列車であることが理解できた。詳細は省くが、私が整理した「道諦の指針」は次のように示すことができる。 ------------------------------ 法の体:慧1 ⇒ 信 ⇒ 戒 ⇒ 勤 ⇒ 念 ⇒ 定 ⇒ 慧2 道 諦:身1(色)⇒感情1(受)⇒ 心1(想) ⇒ 感情2(受) ⇒身2(色)⇒心2(行・識)⇒無明 八正道:正見1 ⇒正思惟⇒正語・正業・正命⇒正精進⇒ 正念 ⇒ 正定 ⇒ 正見2 ------------------------------- (2)「道諦」と「八正道」の対応関係から、三十七菩提分法の対応関係が明らかになる。これにより、『Anapanasati Sutta(入出息念経)』が含む「四念処」と「七覚支」が「八正道」の全領域を完全にカバーすることが分かる。ここで、「七覚支」とは「正念」が働いている「四念処」に他ならない。すなわち、択法覚支=身念処、喜覚支=受念処、軽安覚支=心念処、捨覚支=法念処なのである。正念の度合いに応じて正見1は正見2に置き換わるというようにして、八正道は拡大するスパイラルを描いて阿羅漢に到達するのである。 ------------------------------ 四正勤: ←―― 断断・修断 ――→ ← 律儀断・随護断 → (身業 口業 意業) (身密 口密 意密) 四念処: 身 → 受 → 心 ――――――――――――――――→ 法 七覚支: 念・択法・精進・喜・軽安・定→捨 ( 身 受 心 法 ) 八正道:正見1 ⇒正思惟⇒正語・正業・正命⇒正精進⇒ 正念 ⇒ 正定 ⇒ 正見2 四神足: 欲 ――→ 心 ―――→ 勤 ――――――→ 観 五根/五力: 信 ―――――――→ 精進 ―→ 念 ―→ 定 ――→ 慧 ------------------------------- (3)以上が分かれば、本書のp.64〜65で紹介される『スッタニパータ』の中の「田を耕すバーラドヴァージャ」で釈尊の「私にとっては、信仰〔信〕が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛と鋤である。慚が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけること(sati)〔念〕が鋤先と突棒とである。」という言葉の謎が解けるのである。 すなわち、信=正思惟 ⇔ 種、苦行=正精進 ⇔ 雨、智慧=正見=正見1+正見2 ⇔ 軛+鋤、慚=正定 ⇔ 鋤棒、念=正念 ⇔ 鋤先+突棒、心=正語+正業+正命 ⇔ 縄、のように対応するのである。慚を「正定」としたのは、「正念」が鋤先で、「正見」が鋤(=鋤先+鋤棒)という全体表現なので、鋤棒に対比させられた慚とは自ずと「正定」に対応することが分かる。 「慚」とは「自己に対して恥じること」と説明されて来たが、「恥じる」前の「自己の内側に対する心の働き」に注目するならば、「正定」であることが分かる。これを「恥じる」と表現したのは、「正見」の智慧を「正念」で平静にした心に「正定」で定着させる途中で、以前の平静でない心を恥じるという心情を示しているのであろう。
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