著者は、あとがきで次のように述べる。“これ(本書の元となる『大法輪』の連載執筆)をお引き受けするにあたり、私は次のようなことをお許し頂いた。その時もそうであったし、今もそうであるが、私はいわゆる研究というものをしていない。時間は訳経や坐禅に費やされることが多く、いつも仏教は一つであり、原始仏教であれ、上座部仏教、あるいは大乗仏教であれ、それは名のみのもの、教えの根幹はまったく同じである、と学んでいる。従って執筆はそのような把握によるまとめとなり、学術的なものにならない。いわゆる仏法の立場から「ブッダのことば」を紹介したい、ということである。”(p.419)
私も、真言系密教系の奢摩他・毘鉢舎那(サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の漢訳)修行中に漢訳阿含経を熟読して上座仏教が正しいと考え、スマナサーラ長老に習ったヴィパッサナー瞑想とブッダダーサ比丘の『Mindfulness with Breathing』に書かれたAnapana-sati(安那般那念)瞑想を実践(3年)した。その後に、山口益氏の『大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ』を偶然に手にし、その中の「小乗とか大乗というのは、『独覚⇒勧請⇒如来(ブッダ)』と推移した釈尊成道の一ヶ月のある局面を捉えたに過ぎない」という説明で腑に落ち、大乗仏教と上座仏教の差別感が無くなり、片山一良氏と同じ視点を持ち得たところであった。
だから、今の私は片山一郎氏の気持ちがよく分かる。ブッダが、『大般涅槃経』第6章で「私がそなたたちのために説示し制定した法と律が、私亡き後、そなたたちの師なのです」と述べているように、様々な経典に書かれている言葉にブッダの真実が表現されていれば、その法を師と仰げば良いということである。そうした言葉があるからといって、経典を崇める必要はないし、その経典を崇める宗派に所属する必要もないのである。