本書は、確かにフーコーの入門書として読むこともできるが、フーコーの著作やキーワードをわかりやすく解説するような類の著書ではない。文献案内も無い。そうではなくて、本書は、フーコーの代表的な著作と近年刊行された『講義録』を素材に、フーコーと「近代」との関係を明らかにしようとするものである。つまり、フーコーの関心は、一貫してカントの議論に依りつつ「近代性の成立」とその批判、その乗り越えにあるという。
このような主張は、特段意外というわけではない。
フーコーは「人間の消滅」テーゼで有名であり、ポストモダン、ポスト構造主義者にしばしば位置づけられる(フーコー自身はそれを拒否していたが)。
また、フーコーはカントの『人間学』に関する論文を執筆しており、他の著作においてもカントについてしばしば言及している。
本書の新しさはどこにあるのだろうか。
フーコーにおいてしばしば問題にされるのが、考古学、系譜学、統治性、そして自己論へといたる方法論的転換をどのように捉えるかである。本書は、『性の歴史1』から『性の歴史2, 3』の間の変化を、近年刊行された『講義録』で穴埋めすることによって、フーコーの議論の一貫性を主張している。後期フーコーにおいて古代ギリシア・ローマが取り上げられたことは、しばしばフーコーが古代のノスタルジーに浸っているだけだと否定的に解釈されていた。それに対し本書は、カント的な「人間」の啓蒙に関連して、自己の「形式」として、後期フーコーを位置づけ、肯定的に解釈している。
この点の評価は、にわかに判断することができないが、全体的に本書は、議論の目的と内容が明確であり、説得的である。
本書は、フーコーの代表的な著作のみを取り上げ、内容も概観するに留まっている。近年では『講義禄』の刊行に伴い、それを反映されたフーコー本がいくつか新たに出版されている。これら近年の研究は、本書と大きく矛盾するようなものではないだろう。この点において本書は、入門書としての役割を期待できるだろう。
「フーコー以降のフーコー」に関しては、約10ページほどしか割かれておらず、物足りなく感じた。
主に、ジョルジュ・アガベン、アントニオ・ネグり、ジュディス・バトラーを取り上げている。本書は、「フーコー受容」を狭義に捉えているようで、それ以外のフーコーの影響を受けたと思われる研究は、時代遅れとして、あるいは真のfoucauldianでないとして、切り捨てられるか、無視されている。確かに「自己」の問題系は重要な領域であるが、人種、戦争、植民地統治、科学などに関して、後期フーコーとも重なりつつ、様々な議論がなされているのではないだろうか。
とはいえ、本書は読んでみる価値のあるものである。