私はカトリック信徒だが、「信仰とは何なのだろうか」と考えさせられた。全世界で同じミサ・祈りを献げていても、相手の同意なく性的行為を持つ者、保身に走る者、被害者のために戦う者、沈黙する者、自分も被害者だと名乗る者、関わらないようにする者…。同じカトリック信者として「信仰者」であっても、結果はこんなに違う。
このアメリカの件のあと欧州で次々と発覚し、多くの人々が教会から去って行った。(洗礼数は相変わらずあるが、それは信頼が回復されたからではない。ただの慣習として授けてもらい、あとは教会に行かないケースもある。お宮参り・七五三に行った後、継続して神社に行く日本人はほとんどいないだろう)2012年2月の時点で賠償額は1500億円を超えた。かなりの不動産を売却したのではないだろうか。しかし、1500億円ぽっちでは済まされないだろう。
救いは被害者側についたトーマス・ドイル神父がいたこと。私は彼こそが本物の神父と思うが、組織を守る側からすれば「神父にふさわしくない」となる。もう…「一体、カトリックの信仰とは何なのか」と思わざるを得なくなってくる。ドイル神父が途中で教会の定義について言及するが、その通りと思った。
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あなたを知る前 私は孤独だった
大理石のアーチに あなたの旗を見た
愛とは勝利のマーチではない
それは冷たい失意のハレルヤ(主をほめたたえよの意)
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組織のスキャンダルを描いた映画のエンディングの歌なんかきっとミサでは歌わせてくれないだろうが、本当に素晴らしい歌と思う。
最近列聖・列福し、聖人や福者を増やしているようだが、本音は金集めだ。今年の年末から「信仰年」が始まるが、こういう特別年の設定もまた金が集まるからだ。結局「信者の金」を「司祭の性的虐待の賠償」に充当させるのだ。一体誰の信仰を問うていかねばならないのか。
そして、私はどのような信仰生活を送るべきか?