桐野夏生の「白蛇教異端審問」の中にある「オコナーの恩寵」というエッセイで、初めてフラナリー・オコナーの存在を知った。
昔この人の短編は「グロテスク」「残酷」と形容されたそうだが、それは日本人キリスト教信者へのイメージが「我々とは違う清らかさ」で固定化されているからかも知れない。
しかし現実はそうでもなく、アメリカでは相も変わらず人が殺され続ける。
そしてオコナーの場合、実際の殺人シーンよりも、そこに至る過程の方に殺傷力が傾いている。
この下巻だと「家庭のやすらぎ」のサラ・ハムの傍若無人な嘲り、死してもなお高圧的な父親の影…どれをとっても主人公にはマズイ事ばかり。というか、スーツケースぐらい自分で準備しろよ、と言いたくなってくる有様のまま、カタストロフに向かってゆく。
また、殺人こそないが、エンディングの結果にこちらまで泣きたくなる「パーカーの背中」…これも結果が悲しいのではなく、二人が話し合いもロクにしていなかった、その日々の見えるところが悲しいのだ。
こんな過程と結果の流れを、絞りに絞った文章で刻み続けたオコナーは、今なお根治治療法なき「全身性エリテマトーデス」のため、39歳でこの世を去った。
せめてあと10年、命が続いてくれたなら。
世間の価値観も激変する過程で、どんな小説を書いてゆくのかもっと見てゆきたかった、と思う。
※「ブラックジャック」中の「未来への贈りもの」にもこの病気にかかった女性が出てくる。
「啓示」や上巻の「火の中の輪」に出てくる、感謝を強要する女の描写にも不安を掻き立てられるが、文句なしに恐ろしいのは下巻の「障害者優先」だ。
何が怖いといって、主人公シェパードの「善良さの基準」にどこかズレがあるまま物語が進むところが一番怖い。だいいち、彼が小言をいう息子のノートンは、凡庸な子には違いないが、父親が思うほど愚かな利己主義者には見えてこない。まして、腐ったケーキを目立つ場所に放置しておきながら自分の責任は感じず、ただ息子の貪欲さを罵るとはどういう事か。
そんな彼は、理想の息子の代用品として、脚は不自由だがクレバーな非行少年を家に下宿させることにした。この少年が何を引き起こすか、その過程だけでも上下巻を買うのに値する。
勿論上巻の「善人はなかなかいない」「田舎の善人」「強制追放者」等、繰り返し読むべき短編が他にも多くあるのだが、それにつけても自分のキリスト教への無知さが今度は悲しくなってくる。しかしそれでも読むだろう。