報道写真はよく「撮っている暇があるなら助けろ」といった撮る側の倫理が問題視されてきたが、本書は写真を「見る側」の倫理を問うという意味で「リテラシー」とした著者の意図は十分に序章で説明されている。とはいえ著者は「写真をこう読め」と導くことはしない。例えば貧しくとも笑顔で生きる途上国の少年少女といった、写真を見る私たちが自然に陥る<了解>の枠組みが、写真の向こう側にある個別の事実や悲劇をむしろ遠ざけ隠蔽しているのだと、中平卓馬やソンタグの提起した問題を辿りながら解説を加えていく。つまりその隠蔽は写真家と見るものの共犯関係に他ならない。美しい色彩、美しい構図の写真は、私たちの既存の美的価値観にきれいに収まるがゆえに、現実に起きている固有の悲劇を、無意識に了解済みの出来事へと一般化させる。
究極的にはアウシュヴィッツという空前絶後の悲劇を写真が表象することができるのか、というアドルノ的問題を、これからの写真は抱えて歩んでいくこととなる。「それでもなお」写真が現実の力を持つとすれば、その力の起源は「写真が写さないもの」「写真によって見えなくなるもの」を問い続ける私たちの倫理でしかない。その倫理のありかを著者はリテラシーと呼ぶ。報道写真受容史ともいうべき力作。