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フォイエルバッハ論 (岩波文庫 白 128-9)
 
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フォイエルバッハ論 (岩波文庫 白 128-9) [文庫]

フリードリッヒ・エンゲルス , 松村 一人
5つ星のうち 4.7  レビューをすべて見る (3件のカスタマーレビュー)
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登録情報

  • 文庫: 105ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1960/5/5)
  • ISBN-10: 4003412893
  • ISBN-13: 978-4003412893
  • 発売日: 1960/5/5
  • 商品の寸法: 14.4 x 10.6 x 1.4 cm
  • おすすめ度: 5つ星のうち 4.7  レビューをすべて見る (3件のカスタマーレビュー)
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By マホ
本書のなかでの対立軸のひとつが唯物論対観念論である。
思考と存在の問題―すなわち、「われわれの思考は現実の世界を認識することができるか」という問題―を扱う中でエンゲルスは、唯物論に観念論的修正を加える。
つまり、「現実の世界それ自体」は存在するが、われわれが実際に認識する現実の世界はあくまでわれわれの「観念が作り上げた世界」であるとする。
フォイエルバッハ論で語られる内容は、構成主義と呼ばれる概念にヒントを与えるように思われる。
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唯物論再考:エンゲルス「フォイエルバッハ論」松村一人訳、岩波文庫、1960. (原著1888年) について

原著の付録として、エンゲルスがマルクスのノートから見つけた、有名な「フォイエルバッハテーゼ」が付いている。もちろん本書にも付いている。次のものは多くが知っていよう。
第六テーゼ「人間の本質とは(中略)社会的諸関係の総和である」p.89
第十一テーゼ「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したに過ぎない。大切なことはしかしそれを変えることである」p.90

哲学書については、一般に、a. 扱う物事の粒度と、b. 論理の二つについて、1. 今では修正を要するもの、2. 当時の認識の制約を、今の知見に変えて読み直す必要のあるもの、3. それだけで意味のある結論が出されていて、解釈しさえすればいいものを、読んだ上で区別せねばならない。(以下、a. b. 1. 2. 3.の記号を引用に使う)
マルクス、エンゲルスの時代に、物事を階層として見る見方はなかった。粒度は、階層をさらに一般化かつ具体化した概念で、物事を扱う空間的時間的範囲と、扱う物事の属性の選択とその抽象度である。エンゲルスは、マルクスと異なり、粒度を一般化し過ぎてとらえることが時にあったので、注意する必要がある。
次に、字数の制約があるので、主な点だけを、目次の順に簡単に述べる。なお、各章に付けられている題は、訳者が付けたものであることに注意。

1. ヘーゲルからフォイエルバッハへ

「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」(ヘーゲル「法の哲学」) p.14 という有名な言葉が紹介され、批判される。p.14
へーゲルの特性として、体系の保守性と方法の革命性が述べられる。p.23 「ヘーゲルにおいては」「真理は今や認識の過程そのもののうちに、哲学のながい歴史的発展のうちにあった」p.17 「果てしのない向上の不断の過程以外、なにものも永続的でない」p.18
このヘーゲルの体系に対する、フォイエルバッハの簡単すぎる批判が批判される。
全体に本章は、歴史の総括だけである。

2.観念論と唯物論

エンゲルスは唯物論の定義について、二箇所で、異なった内容を述べている。一つは次のところである。
「自然に対する精神の本源性を主張し、したがって結局何らかの種類の世界創造を認めた人々は(中略)観念論の陣営をつくった。自然を本源的なものと見た人々は、唯物論のさまざまな学派に属する」「観念論と唯物論という二つの言葉は、もともと右に述べた以外の意味をもっていないし、ここでもまた他の意味に使っていない」p.30

「A がB より本源的根源的である」こととは、A がB を根源的に作ることか、またはA がB を根源的に規定することか、を意味するであろう。
どちらが片方を根源的に作るかという前者について見てみよう。
科学が真理を明らかにしていないが、しかしそれに対して何らかの哲学的態度をとらねばならない時がある。エンゲルスの時代に「精神に対する自然の本源性」を主張することは、当時としては哲学的態度であった。エンゲルスは当時その決断をし、哲学としての唯物論を主張したのである。
どちらが片方を根源的に作るかということは、精神が自然を根源的に作るか、自然が精神を根源的に作るか、生命や社会の現在をもたらしたものは何かということである。かつては哲学的命題であったこの命題は、エンゲルス以降、百数十年の科学の進歩により、唯物論の明らかな勝利が確定し、今は科学的命題となっている。これが科学的命題であるということは、現在は、生命の起源や社会の起源、それらの発展過程を議論するのは、客観的な事実に基づく実証と論理が必要だ、ということである。

唯物論とは、普通、哲学としての唯物論であるから、唯物論とは何かという哲学の問題は、「起源」に関する前者に関しては、すでに消滅している。
この問題は、a. 扱う物事の粒度について、1. 今では修正を要する範疇に属する。

どちらが片方を根源的に規定するかという後者については、4章に出てくる。
「さまざまの方向に働く多くの意志と外界にたいするこれらの意志の様ざまな作用との合成力が、まさに歴史なのである」4章p.68 という記述や、4章に述べられている生産力、階級闘争、イデオロギー、宗教などについての、唯物論の多くの画期的命題は、マルクスやエンゲルスが、物事を対象化し、その粒度を徹底的に考え抜き批判し見出し得たものである。これらの業績も貢献した結果、百数十年の科学の進歩により、第一に、今は科学的命題となっている。

しかし第二に、これも唯物論の明らかな勝利が確定した上で、と言えるかどうか?とらえる時間粒度によって、個々の人間の意志が隠れてしまう粒度のあることは、先の引用のとおりである。一方、個人の行為は必ず個人の精神的意志によってなされる。この両者の間には、多様で複雑な事象があり、様々な個別科学の多様な粒度で定式化されるようになっている。個人の見えなくなる粒度で扱う数年、数十年、数百年、千年の時間粒度の歴史事象だけが重要だというわけではないから、我々はただ、マルクスやエンゲルスの発見が、彼らの、粒度に対するどういう態度によるものかを追求し続け、学び、身につけ、その上で彼らが、歴史上、かくかくの重要な発見をしたということを記憶しておくだけでよい。

唯物論とは、普通、哲学としての唯物論であるから、唯物論とは何かという哲学の問題は、「根源的規定」に関する後者に関しても、すでに消滅している。
この問題も、a. 扱う物事の粒度について、1. 今では修正を要する範疇に属する。

エンゲルス自身、自然や歴史の分野で哲学は終わることを述べている。「もはや問題はどこでも、連関を頭のなかで考えだすことでなくて、諸事実のうちにそれを発見することである。かくして自然と歴史から追放された哲学にとって残るものは、なお残るものがあるとすれば、純粋な諸思想の領域、すなわち、思考過程の諸法則についての理論、論理学と弁証法だけである」p.83- 84 これは別の表現で同様の内容をマルクスも(「経済学・哲学手稿」藤野渉訳、国民文庫、1963. 3,p.158)レーニンも述べている。
これは、3. これだけで意味のある結論である。

もう一つの面の浅さ、認識可能性、不可知論批判の浅さが、エンゲルスの欠点を示している。エンゲルスは、カントが物自体は認識できないとしたのに対し、世界は認識可能であるとする。p.30 「動植物体内で作られる化学的諸物質は、有機化学がつぎつぎとこれらをつくりはじめるまでは、(中略)「物自体」にとどまっていた」が、合成できるようになると、「カントの認識できない「物自体」はそれで終わりである」p.32 というような安直さはその後の俗流唯物論に引き継がれた。「素粒子といえども汲みつくせない」(坂田昌一) 世界を全て認識するまでには無限の時間が要るが可能ということと、世界は認識不可能ということは、扱う粒度が違うだけで同じことを言っている場合もあるのだ。
これは、a. 扱う物事の粒度と、b. 論理の双方について、1. 修正を要するものの範疇に入る。

3.フォイエルバッハの宗教哲学と倫理学

ヘーゲルが「悪とは、歴史の発展の推進力が現れる形式」と述べている。p.52- 53 「唯物論者」ヘーゲルの面目躍如というところである。エンゲルスも賛成して議論を展開している。本書のこの部分だけでも読むに値する。
ただし、「歴史の発展の推進力が現れる形式」と粒度を限定した「悪」と、そうでない悪の、a. 粒度の確認を、まじめな人は、しておいたほうがいいかもしれない。

「愛」の実現のためには、抽象的な「愛」の気持ちだけでは足らず、制度や物質的実現条件が必要だ。マルクス主義は、人間の前史には、階級「闘争」があったと言うだけで、本来は「愛」の哲学である。
エンゲルスは、あらゆる時代、あらゆる状態に合うように作られたフォイエルバッハの道徳理論は、まさにそのためにどこにも適用できない「万人協調の夢想」だと批判する。pp.57- 58 本章では、フォイエルバッハは、容赦なく批判される。フォイエルバッハには、足らないところがあった。エンゲルスは、足らないことと間違っていることを混同している部分が大きい。
これは、a. 扱う物事の粒度が違い、1. 修正を要するものの範疇に入る。

4.弁証法的唯物論と史的唯物論

エンゲルスは唯物論の定義について、二箇所で、異なった内容を述べている。一箇所は前に述べた。もう一箇所は次のようである。
「われわれは現実の世界――自然と歴史――を、先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない」p.60

これは明確に哲学の立場であり、当分の間哲学の立場であり続けるだろう。「犠牲にする」必要のあるのは、「先人の観念論的な幻想」「観念論的諸幻想」に限らず、さらに広げて諸幻想一般、諸固定観念一般である。この唯物論の立場は、貫くことの極めて困難な立場である。常に唯物論者である人はいない。いかに「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しない」固定観念が出来上がりそれにとらわれているかは、それを克服して初めて、その固定観念がなければいかに単純明快なものか後で分かり、その都度、固定観念の強さに思い知らされるのである。我々は常に、一か月前には正しかったかもしれない「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しない」固定観念にとらわれている。
我々の認識は、必ず何らかの固定観念を媒介して行われる。この固定観念は相対的にしか「正しく」ない。この固定観念と「観念論的諸幻想」の間には、相対的な差があるだけである。人が事実と言っているのは、殆どの場合、ある主観によって表現された事実である。今見ている月は、表現されていない時だけ、客観であるが、この月の像さえも、僕の今の位置や目の能力に規定されているだけでなく、今日の経験や今まで月について書かれた作品に規定されている。事実を「それ自身の連関において把握」することは、2章に述べたように、無限の時間をかければ可能かもしれないものである。表現された事実は、必ず客観と主観の合成物であるから。ではどうするか?

この第二のエンゲルスの言い方は、今のところ唯一の正しい唯物論の定義である。しかも、この態度は最も重要な哲学的方法である。思考するとは唯物論者であろうとする努力である。唯物論とは、認識面では、何かを承認すれば達しうる人や思想の属性ではなく、「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心」p.60 し続ける過程のことである。
これは、a. 扱う物事の粒度を見直す必要があり、2. 当時の認識の制約を、今の知見に変えて読み直す必要があるかもしれないが、3. それだけで意味のある結論が出されているものの範疇に入る。

0. マルクス主義:書評の終わりに
マルクス主義は、1. 抑圧のない自由な愛の社会を作るという価値実現のための、自分、対象、社会の同時変革(マルクス「経済学哲学手稿」)という目的を持ち、21. 思想,哲学と22. 方法の二つを合わせ持った生き方を与える可能性を持った唯一のものである。
マルクス主義の21. 思想,哲学は、本来、マルクスの座右の銘「全てを疑え」に示されているような211. 事実に対する徹底的な対象的批判的態度、相対化志向と、212. 物事は相互規定と変化の中にあるという思想を持っている。
これらの各項目は、他の項目すべてを規定し、同時に他の項目すべてから規定される。
1. の目的が、21. 思想,哲学を、21. 思想,哲学が、22. 方法を規定するようにみえるが、これらは全て、相互規定の関係にある。例えば、1. の目的も、自らの21. 思想,哲学と22. 方法によって人類の事実の歴史を総括して得られるので、実際上「常に」という頻度は必要ないとしても、見直し続けるべきものである。

212. 物事が相互規定と変化の中にあるということは、2121. 実践面では、しんどいことに、人は、自分、対象、社会の同時変革を行い続け、そのための思想の見直しを行い続ける必要があるということを、本来、主張する。共産主義とは状態を表すのでなく、今行う努力であるという、マルクス、エンゲルス「ドイツイデオロギー」の中の言葉に、これは端的に言い表されている。
物事が相互規定と変化の中にあるということは、2122. 認識面では、社会も個人も「マルクス主義」自体を含めた観念も、常に相互規定的に変化し続けているという理解が必要ということを、本来、主張する。それゆえ、唯物論とは、認識面では、何かを承認すれば達しうる人や思想の属性ではなく、「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心」p.60 し続ける過程のことであった。

これによりマルクス主義は、認識の努力と、自分、対象、社会の同時変革を、常に誠実に行い続ければ、生の属性である自由と愛の増大という1. の目的が得られるということを主張する。
こうした努力を行いさえすれば、マルクス主義は、自分の中に自分を超えていく力を持つはずであった。

しかし、全てに相互規定性があるので、どこから始めていいのか分からない。マルクス、エンゲルスは、哲学、経済、政治の分野で、「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心」p.60 し続け、大局からこの各項目の粒度を変更しそして論理を述べた。物事の論述は、物事の粒度とその間の論理である。彼らが考え抜いたのは、粒度なのだ。

マルクス主義の膨大な課題の中で、しかし、マルクス、エンゲルスが行ったことはその中のわずかな一部である。マルクス主義者なら、この根源的態度で、この内容を求め続けなければならない。彼らの書いたものだけでなく彼らの求めようとしたものを求めなければならない。しかしこれは、世の「マルクス主義者」のやらない第一のことである。解くべき課題の全内容があり、ついでマルクスが彼の時代の制約の中で問題意識を持って書き残したものがあり、その中に「マルクス主義的定式化」がされたと「マルクス主義者」が理解するものがあり、最後に「マルクス主義者」によるその「解説」がある。適切な数値化ではないかもしれないが、内容は一段階を経るごとに百分の一になり、この四段階を経た後に残っているのは、一億分の一になって香りの失せた残りかすである。

いかなる哲学、思想も、さらに方法でさえ、創始者が既存のものを見直す態度から生じた。この見直し続ける態度を学ばなければ、いかなる哲学、思想、方法も、例外なく停滞し、創始者の亜流の亜流になり下がるだけでなく堕落さえするというのは、歴史が示している教訓である。世の「マルクス主義者」のやらない第二は、このマルクスのマルクス主義的態度を学ぶことである。

「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心」し続け、マルクスが行った、本来、相互依存性、同時決定性のある、大きな時間粒度と空間的時間粒度の理想の価値、現実、価値と現実を繋ぐ歴史の法則と実現運動論の各要素について、根源的に謙虚に批判的に、これも相互依存性、同時決定性のある、1) ある全体の粒度を考え抜き、2) 内部構造とサブ要素の粒度見直し, 3) 要素または要素の種類の網羅を行い続ける根源的網羅思考RTが、マルクスのマルクス主義的態度であった。
二重の相互依存性、同時決定性を克服し、1) ある全体の粒度を考え抜き、2) 内部構造とサブ要素の粒度見直し, 3) 要素または要素の種類の網羅を行い続ける根源的網羅思考RTによって、理想の価値、現実、価値と現実を繋ぐ、認識面では歴史の法則と、変更面では実現運動論の発見という差異解消RDを行うということである。

マルクスが行ったのは、実に困難なこの作業の一部であった。ただ、このためには、粒度の近似、抽象化、一面化を行う必要があった。理想の価値、現実、価値と現実を繋ぐ歴史の法則と実現運動論の三者全体について、限定、一面化の粒度において100%正しい。しかし、個々には必ずしも正しくないので、述べていることが現実と違うという印象を一部に与えたし、それのみならず、自身の記述に食い違いを生じさせている。例えば、大工業は、一方で、労働者に「貧困」の極限を与えるが、一方では全体的個人を育てるのである。この点を慎重に処理する必要がある。
3) 根源的網羅の第一の制約は、(対象の種類の網羅にも、対象の網羅にも共通に) 1) 全体の粒度と 2) 内部の細かさ(密度)つまり内部構造と個々の対象の粒度に依存するということである。つまり、困難さは、三項の相互依存性を同時解決することにある。例えば、袋に入った100個のボールが、10個ずつの小さな袋に入っているとする。全世界から100個のボールが入った袋を指定するのが、1) 全体の粒度である。対象が、100個のボールなのか、10個ずつのボールの入った小さな袋10袋なのかは、2) 内部の細かさ(密度)をどうとらえるかにもよるのである。

最初に触れたように、1章から4章までの各章に付けられている題は、訳者が付けたものである。題に登場する用語は、訳した当時としては、ほぼ妥当だったと思われる。しかし今は、唯物論、史的唯物論という用語は検討を要する。
哲学としての唯物論が、弁証法的唯物論と史的唯物論からなるというのは、明らかに違っている。史的唯物論は、科学の一部になっている。相互規定し合う、哲学=唯物論と、方法=弁証法があるので、それぞれを、弁証法的唯物論、唯物論的弁証法というのがよい。前者は、方法的哲学、後者は、哲学的方法ということになる。
唯物論という名称が今となっては古いことは、述べたとおりである。古いことを承知で、歴史的名称として使い続けるという了解のもとで使い続けるのもいいだろうと思う。代わるいい名称がない。内容としては「事実主義」だが、元気が出ないし、この名前にしても、表現されている「事実」は、必ず、客観と主観の合成物であるとか、「事実」は、事実は、この世界の現実とその歴史であり、現実は、物、精神(他人と自分の)、関係から構成され、真理や方法、実現するべき価値や意味を含む既存の「観念」の体系も、事実から時間をかけて作られ続ける高次の事実である、とかを説明しないといけない。僕は事実をこうとらえるが、各人の扱っている事実の粒度は、みな違っている。

1888年に書評として書かれた小冊子である本書も、激しい変化の流れの中に置かれている。書かれた内容も当時の制約のもとにある。本書も、今2011年の目で読み直さねばならない。本書評は、本書の一部について粒度の読み方の一端を示した。いくつかの粒度を見直さないといけないことが分かった。数十年後にも、本書は、読むに値する本であり続けるであろうが、読みかたは更に変わっているであろう。

前に、ある弁証法論理の本の書評を書いた時、現在の弁証法ほど、あるべき姿と現状が乖離しているものはなく、膨大な課題が残っていると書いた。現在の唯物論も、この乖離は激しいことが分かる。唯物論にとっての救いは、結論だけを覚えてそのために活動することにも意味はあることだ。そして、この現状は、常に「すべて合理的」である。
マルクス、エンゲルスの考え方、姿勢、態度、生き方は、彼らの著作から十分読み取ることができる。しかしわずかな例外を除いて世の「マルクス主義」者は、マルクスやエンゲルスの書いたものを解釈するだけだ。そのような読み方をしていると、「マルクス主義は古くなった」という正当な批判を受ける。世の「マルクス主義」者は、その批判に、マルクス主義についての誤解や悪意を見つけると満足し、正しい面があるかもしれないことを忘れる。
(高原利生、2011.12.19, 20, 27,31,20120101,03,0205,0301改)
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昔読んだ本を散逸してしまい、改めて読み返して頭を整理したのです。

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