カサヴェテスの映画の面白さは、表象と深層の断絶を観察する面白さではないだろうか。
ジョン・カサヴェテスの作品において、登場人物たちは必ずしも思っていることをあけすけに言葉や態度に表したりはしない。『フェイシズ』が公開されたとき、批評家たちの中には、この映画は俳優達が慌しく動き回るだけで、何も起こっていないではないか、と言った者も居たという。カサヴェテスの映画において、何か大きな出来事が起こった時、わかりやすい原因やリアクションが映画の中にあるとは限らない。むしろ、映画に対する知的な理解を、鑑賞者にも俳優たちにも、彼は拒否することさえあった。カサヴェテスが鑑賞者に対して求めたのは、映画に対しての知的理解による、分かりやすい感動ではないからである。人は悲しいときに必ずしも悲しむのではない、逆に、人は笑っている時に楽しい気持ちなのではない。カサヴェテスの映画の中において、表象は必ずしも真実と一致するものではない。この不一致が最もよく現われた彼の作品は、やはり『フェイシズ』であろう。
「『フェイシズ』で言いたかったのは、本当に対話をしている人間がいかに少ないかって事だ。(中略)人々の間には、コミュニケーションが無い。代わりにあるのは、まわりくどい話だったり、敵意や笑いなんかだ。誰も心から笑ってない。」*1
『フェイシズ』において、ジョン・マーレイ演じるリチャードと、リン・カーリン演じるマリアの中流アメリカ人夫婦の対話のシーンは、もっともこのカサヴェテスの言葉を表しているものだろう。リチャードが帰宅すると、二人は一見楽しく、ジョークを言い合って、涙が出るほど、大笑いする。しかし、鑑賞者である私達はこの大笑いする二人の登場人物に感情移入して、一緒におかしく笑うことはできない。何故なら、二人の間にあるものが楽しい会話でも、私達は、二人が心から大笑いをしていない事を知っているからである。
しかし、二人が心から笑っていないということを、映画は明確には表さない。私達がそれを知るのは、二人の登場人物の間に流れる空気や、もしくは、リチャードが立ちあがってマリアの後ろのキッチンに行ったとき、マリアの表情から笑顔が消え失せた瞬間の、一瞬の冷めたような表情のクローズアップのカットの挿入などによってである。この場面において、表面上、起こっているのは、二人のジョークの飛ばしあいと大笑いであるが、実際起こっているのは、既に愛情が消えた夫婦の間における、互いの欺瞞に対する、果てしない追及なのである。この次のシーンで、リチャードはマリアに離婚を切り出すのだが、もし、このシーンにおいて、鑑賞者が表象をそのまま受け取って、深層を汲み取ることができなければ、リチャードが何故マリアに別れを切り出した事があまりにも唐突すぎるように思え、原因がまったく分からないだろう。
このように、カサヴェテスの作品においては、テキストとサブテキストの間に、大きな断絶がしばしば存在する。そしてこの断絶は、現代人のコミュニケーション能力の欠如を表現するものとして、彼の映画作品において利用されていたのである。
*1:Ray Carney“Cassavetes on Cassavetes” , P.136