小説の舞台が、わたしの愛する安曇野ということなので、どんなものか読んでみた。
正直な感想を述べる。この作家は、ほんとうの安曇野を知らない。作家の心が、安曇野の風土と共鳴し合ってはいない。つまりは、心の底から安曇野を愛してはいないのである。残念なことに、強くそう感じた。
安曇野が舞台である必然性がないのである。安曇野の風景描写も、取ってつけたような薄っぺらで、表面的なものでしかない。どこからか借りてきたような描写に終始している。(目で見た風景と、心を通して見える風景とは違う。当然に描写も違う。風景が心と共鳴し合うとは、心が風景と一体になったことだ)
登場人物の名前に横文字が多いというのも(最近の小説はカタカナ表示が一般的になっているが、これは人の記号化の意味があるのだろうか。血と風土とは記号化とは対極にあるもののはずだ)安曇野の風土を考え合わせると、強い違和感を覚えた。
この小説がテーマとする安曇野という風土と、祖先の魂を内に宿している血とは、気の遠くなるほどの時を潜り抜けてきたもののはずだ。そして、風土と血とは不可分に結び合っているはずである。この小説では、その風土と血との不可分性が描かれていないし、感じられない。
少年が成長して東京の大学に入学し、東京で暮らし始めるが、安曇野で育まれたはずの風土性を生き様として引きずってはいない。少年期の主人公と、東京で暮らすようになった主人公のなかに、一貫した安曇野の風土性が息づいていないのである(記号化されたものであるなら当然である―ならば、血のつながりをテーマとすることと、根本的に矛盾している)。
主人公とリリーとゴボウの三人で安曇野に帰るシーンがあるが、まったくの旅行者の視点で描かれている。そうとしか、感じられないのだ。
それは、つまりは作家が向き合っている安曇野の意味であり、この小説と作家の限界なのだと思う。
これは、日記ではないのか。
小説というには、あまりにも御粗末である。心の奥深いところにあるものを描こうとする意図がまるで感じられない。
ただ、だらだらと時系列的に上っ面だけをなぞっている。一人称の視点でかいているのはいい。が、少年期と大学時代とで書き方が一緒なのだ。何を考えているのだろうか。心の成長を考えるならば、同じ一人称であっても当然に変えなくてはならないはずだ(少年期を回想して書いているとしても)。
視点が一緒のために(少年と青年では見えるものが違うはずだ。外界も内面も。それが一緒になっている)、心の成長が全く感じられない。ただ、外見だけが変わっただけとしか思えない。深層にある心の成長が描かれていないのだ。
小学生が、「毒舌家のリリーのことだから……」なんて考えるものだろうか。毒舌家なんて言葉は持っていないし、小学生がまさか「踵を返して」はないだろう(例を挙げればきりがない)。小学生の目線に立った表現をしなければ、少年が見ている世界はわからないはずだ。回想で書いているとしても、あまりにも一面的である。
読んでいて、作者の小説に対する考え方に疑問を抱いてしまった。
何を書きたいのか?
安曇野の風土なのか、血のつながりなのか、少年と少女の愛と心の成長なのか、さっぱりわからない。全くといっていいほど、工夫がないからだ。これでは、読むのが辛くなる。1500円もの金を出して読むのだ。
素人がだらだらと書いた日記と代わり映えのないものを読まされたら、金を払って二度と小説など読みたくはなくなる。
出版不況とはなんなのか。プロの作家なら、その辺りを厳粛に受け止めるべきだろう。これを渾身の一作などといっている神経を疑いたくなる。
はっきりいって、こんなレベルでは公募の新人賞を獲れるレベルではない。なのに、新聞にも取り上げられている。不思議でならない。
こうした小説を宣伝によって売ろうとすることこそが、出版不況の要因になっていると思えてならない。