この映画には二通りのステレオタイプな反応を監督や原作者は想定しているように思う。一つは、徹底的な不快感を抱き、「何て酷い映画だ、金返せ!」的な反応。そしてもう一方は、実はこの映画は暴力は暴力であって、正当化されることはあってはならない、というメッセージを逆説的に読み取り、一応納得する反応。
しかし、私はこの映画を作った人間は、実はどちらの反応も予想済みで、いずれの反応をしても原作者や監督、否この映画自体が理解に苦しむ不条理と、不快感を説明したり、慰めたりするための理屈や製作者の意図をひねり出そうと頭を悩ます観客を哂っているように思えてしまう。この映画が真に不快で、なおかつ真に評価に値する理由は、「ハリウッド映画の常識」に浸かり安息し切っている観客の脳を揺さぶり、暴力についての再考をいやでも「強制」させる点にあるのではあるまいか。特に、ファニーゲームは、青年への家族側の暴力の行使が引き金となっているように解釈出来る点で、幅広く、奥深い思考空間を用意することに成功している。単純な反暴力でも、暴力肯定でもなく、貴方がどう考え、なぜそう考えるのか、を突き詰めて問う事を求めているのだ。
客に「頭を使えよ」と迫り、映画に頭を使うことなど予期していなかった私達を困惑させ、怒らせるのが本作の狙いであるように思う。その意味で、2人組の青年は、この映画そのものであり、困惑する観客は、突如として不条理の極地へと突き落とされる家族にどこか似ている。そうして、観る・観られるという図式を打破するメタ的演出も手伝い、私たちはいつの間にかスクリーンの「内側」へと投げ込まれてしまうのである。