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5つ星のうち 5.0
死の娯楽性の否定, 2009/11/16
レビュー対象商品: ファニーゲーム [DVD] (DVD)
この映画を見て否定的な意見を述べる方は、 きっと幸せな方なのではないでしょうか。 確かに、この映画に出てくる犯罪は許されざるべきことで、 実際にこのような事件が起きたならば、犯人は法的にも 社会的にも罰を受けるべきだと思います。 しかし、それとこの映画を否定するのとは別の話です。 コメディ映画でも、感動的と呼ばれる映画でも、死は表現されています。 戦争映画やアクション映画でも、当然のように死や暴力が表現されます。 ただそれを、なんとなく受け流しているのが、我々観客ではないでしょうか。 アクション映画の中で、銃撃戦に巻き込まれた一般市民が死ぬシーンがあるとします。 それを観て、だれがいちいちその死に感傷的になるでしょうか。 ハネケはそれら一般市民にフォーカスを絞ってこの映画を撮ったのではないかと思います。 その死の表現が残忍で堪え難きものであるにせよ、同じ「死」を受け流している観客に 一石を投じているのではないでしょうか。 感動的な結末に至るために、病気の恋人を死に至らしめ、観客のお涙ちょうだい映画の方が よほど残酷だと言っているような気さえします。死を安易に扱うな、と。
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5つ星のうち 5.0
救いようの無い暴力, 2009/7/13
レビュー対象商品: ファニーゲーム [DVD] (DVD)
VHS版で鑑賞し、DVDが欲しいなぁと思っていたのですが 廃盤になっていたので手に入れる事ができませんでした。 しかし、リメイク版の発売が決定し、再販されるとは嬉しい限りです。 この映画には容赦のない“暴力”が出てきます。 最近の映画は暴力を美化し、格好いいものとして位置づけていますが、 本当の意味での暴力はこういうものなんだと訴えかけているような気がします。 この映画の注目すべき点は暴力だけではありません。細かな演出です。 途中、映画のワンシーンで、一家に暴力を振るう少年が見ている側に 話しかけてくるような場面があります。 それはまるで、「この映画がこういう内容だって知ってて見てるんだろ?」と 少年から話しかけられているみたいな感覚です。 「俺は鑑賞している奴等の為にやってるんだ、見ているお前も同罪だ」と 言われている様な気さえします。 なので、他の映画には無いなんともいえない不愉快な感覚が襲ってきます。 最後まで救いようの無い暴力。 この映画には“面白い”という言葉は間違っています。 見終わって、“面白い”と感じる人はきっと異常な感覚の持ち主でしょう。 「もっとやってくれ!」なんて感じる人間はいないはず。 暴力とは一体なんなのか?それを追求した映画です。
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5つ星のうち 5.0
他者と正義の彼岸, 2011/4/30
レビュー対象商品: ファニーゲーム [DVD] (DVD)
ヨーロッパ(大陸)にはもともと「他者をいかに扱うか」という特殊地域的な思想的モチーフが綿々とある。ユダヤ教における契約者としての神、キリスト教における隣人愛、古典古代の政治思想・経済思想の道徳、ルネサンスにおけるユマニスム/ヒューマニズムはもちろん、カント以来の認識論的哲学やキルケゴール、レヴィナス、ハイデガー、サルトルらの個と他の関係(存在)を問う実存論といったミニマルな「個」としての他者を扱う系譜から、「帝国」と結びつき多民族支配を可能とした「万民法/自然法」の着想、植民地支配と結びつく「人類学」や「進化論」、国民国家の乗り越えとしての「帝国主義」と「社会主義」といったマキシマルな「類」としての他者を扱う系譜など、例をあげれば枚挙にいとまがない。20世紀に入ってからも国家総力戦の問題や民族単位のホロコーストの経験は、カント的な実践理性=他者論を礎にした国際連盟、国際連合を生んだ。この思想は、他者がいることで自分(たち)が存在しているという共同性の思想、階級の思想、民族の思想、共生・支配の思想であり、いわば二元論的な考えを多元的一元論へと操作するヘーゲル主義的な弁証法の考え方であるから、結果そこからマルクス・レーニン主義的な他者=社会を建築する思想が抽出されていったとしても不思議はない。 一方、それとは別に<新世界>でゼロから自分たちが社会を作ってきたと考えたがるアメリカでは「いかに正義を行うか」という正義論の考えがある。ヨーロッパの他者論が他者との関係性を問うなかで培われてきたものなら、正義論は「自分たちの選択は何が正義(最善)であるか」を問うものだといっていい。卑近な例だがいわゆる自己啓発書に書かれている思想のことといえば理解しやすいかもしれない(その意味では昨今のサンデル・ブームは自己啓発書ブームの延長にある気がする)。ここにはヨーロッパのように他者のことを<深く>考えることより、自己の計算可能(合理的)な選択のパーツとして他者を扱うゲームのような着想があり、映画にもなったスタンフォード大学の実験を材にとる『[es]』の行動心理学やゲーム理論の世界観のようなものとみればいい。それは自分たちの選択=正義の有限性を、ゆるぎない神や国家の建国理念に転嫁することで自己をあらかじめ免罪化し、有限的な選択の中に他者を矮小化していく考えであり、いわば弁証法的な多元的一元論(国際連合やNATO)を宗教的一元論へ収束させるための思想=ゲームといえる。その一元論の内部では個々の主義者たちが何を価値/宗旨/政策課題とするかの調整があるだけである。たとえばヨーロッパにとっての20世紀、ナチスのホロコーストの経験はアメリカにとって19世紀に先住民のホロコーストとして先取られているが、それが政治化されてもそこから<深い>思想や洞察は生まれない。 ミヒャエル・ハネケの映画の登場人物たちは、感情的に他者/隣人から分断されている局面に立っている。われわれは彼の映画で描かれるその不快な感情に共感することで、分断されていた現実の他者との共感≒分有のギリギリのラインに立つことになる。その意味でハネケの映画は「無為の共同体」としての映画といえるかもしれない。 ところがこの『ファニーゲーム』の不快さは一見、観る者を挑発的に苛立たせているだけの感がある。その苛立ちは当初暴力を振るう側に対してであったものが、映画が進むうちに暴力に無力な家族に対する苛立ちへと代わっていくよう演出される。「なぜこいつらはもっとうまく立ち回れないのか?」「ギャーギャーいちいちうるせえし!」「もっと急いで逃げろって」「逃げてるときに考え事するなよ」「メソメソするな!」などなど…。 しかしこのように苛立ちながらも「ゲーム」に参加することになる観賞行為そのものが、「他者」(共生)と「正義」(選択)の思想を逆向きに利用することで娯楽化する現実を正確に照らし出しているのがわかる。卵を分けてくれと言って隣人面をしてくる「他者」を道徳としてきたヨーロッパと、ゲームを持ちかけ選択肢があるかのように錯覚させる「正義」を道徳としてきたアメリカの姿があの二人組の若者なのである。 だからわれわれがこの映画を観て(ゲームに参加して)おちいるだろう罠が二つあるということになる。まず一つは不快な気分から他人をさまざまな種類に選別=排除する感想を抱くヨーロッパ的な考えであり、もう一つは何かしらの教訓を導きだすことで自分が人生の主人公=支配者であるような物語に酔うアメリカ的な考えである。
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