わたしは、小さいころからリンドグレーンを愛読してきました。それだけに、この評伝には、本当にがっかりしました。
本書では、リンドグレーンを「スウェーデンでの人気者」と賞賛していますが、その際に、リンドグレーンと比較される他の作家や、リンドグレーンに批判的な個人・団体を不必要に貶めているように思います。ほかの作家をけなしてリンドグレーンを持ち上げるのは、品のないやり方ですし、世の中に、リンドグレーンが嫌いな人だっていていいと思うのですが。
著者がリンドグレーンをほめる理由としても、「シングルマザーなのにがんばった」とか、「人気投票で何番だった」というような外的なことばかりが挙げてあり(わたしには、評伝というより暴露本のように感じられました)、作品がどのように優れているのか、著者の言葉で説明した部分はほとんどありません。それどころか、作品の内容説明に細かい間違いが多く、著者が果たしてどこまできちんとリンドグレーンの作品を読んでいるのか、本当に作品を愛しているのか、疑問を感じました。
また、評伝を書く際のモラルとして、どうかなと思うことも多々ありました。
たとえば、『はるかな国の兄弟』の語り手の愛称は、岩波書店の既刊訳(大塚勇三訳)では、「クッキー」と意訳されています。著者は、引用部分では大塚勇三の翻訳をそのまま使用しながら、説明部分では、語り手の名前だけを、なんの断りもなく「スコルパン」とスウェーデン語でカタカナ表記しています。スウェーデン語の響きが伝えたければ、「少年の名前は、スウェーデン語ではスコルパンで、こういう意味だ」と註をつければ済むことですし、どうしてもそこにこだわりたいなら、引用部分全体を自分で訳すべきです。大塚がそれなりに工夫を凝らした訳を使いながら、名前の表記だけを無断で変えるのは、モラルの逸脱ではないでしょうか。
リンドグレーンが今日、日本でこれだけ人気があるのは、日本で北欧文学があまり知られていない時代に、先人たちがリンドグレーンを発見し、良訳をしてきたからで、その上にたって評伝を書く者として、先人に対する最低限の敬意は不可欠だと思います。
先人の仕事も、その訳を愛読したわたし自身も、そして何よりリンドグレーンさえも無碍にされたようで、一ファンとして、非常に残念に思いました。