多くの学生が、数学や物理学の学部校舎の中で「ファイン・ホールの怪人」と呼ばれる人影を目撃していた。彼は紫色のスニーカーをはき、黒板に数学の問題を書きなぐっては徘徊している。怪人の名前はジョン・ナッシュ。天才数学者でありながら、精神分裂病に苦しんだ男。彼の最も偉大な業績は、1980年代に経済学に大きく浸透した「ゲーム理論」の確立であった。
ノーベル賞委員会は、「ゲーム理論」確立者へのノーベル賞授与を検討していた。しかし、必然的にあがるジョン・ナッシュの名前が、ノーベル賞授与を躊躇(ちゅうちょ)させる。精神病の男にノーベル賞をおくるわけにはいかないというのがその理由だった。しかし1994年、精神分裂病を克服したナッシュは、45年前の業績でノーベル経済学賞を受賞する。
経済学者でもあり、ジャーナリストでもあるシルヴィア・ナサーは、ジョン・ナッシュの人生をあらゆる側面から見つめる伝記を執筆。彼女は、ナッシュの数学理論を知的かつわかりやすく解説すると同時に、精神分裂病の厳しい現実を浮き彫りにする。
また、著者は作品中、ノーベル賞受賞学者ナッシュを取り巻く「陰謀」にも触れている。この手のものを扱って出版された、数少ない作品の1つである。本書は、「人間の心に関する3つの神秘:才能、狂気、復興についての物語」である。(Mary Ellen Curtin, Amazon.com) --このテキストは、 ペーパーバック 版に関連付けられています。
映画は主人公の天才数学者、ジョン・フォーブス・ナッシュ本人の生涯と同時に、夫人らとの家族愛を前面に出したもので、それがテロ後の米国が求めるものと一致して多くの賞を取った。映画の原作になったこの本は、より詳細にナッシュが歩んだ壮絶な人生の軌跡を追い、彼の人生を彩った人々を描写している。
ナッシュは、国際貿易理論など経済学の分野のみならず、生物学、政治学など幅広い分野に大きな影響を残した人物である。1994年にはノーベル経済学賞も取った。しかし、そこに至る道は数奇だ。「ナッシュ均衡」「ナッシュの交渉解」などから彼の名前を知っていても、彼の人生の壮絶さはこの本か映画で知った人が多かったのではないか。評者もそうだった。
ナッシュは子供の頃から「どう見ても異質な存在」だったという。彼への形容詞は、「冷淡」「高慢」「気味悪い」「閉鎖的」などが並ぶ。後に発病する病気の前兆だったのだろうか。しかし彼は、「特殊な閃光を放つタイプ」の天才として20代にゲームの理論、幾何学、解析学など広い分野で優れた業績を残す。ノーベル賞もこの時期の業績に対して贈られたものだ。広く知られる理論が、このような狂気との境目を生きた人間から出てきたことに改めて驚く。
病気が始まったのは30歳の時。妄想型精神分裂症とされた。精神病の中でも最も激しく変化し、不可解極まりない難病とされる。それはまさに米マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授昇進が決定する寸前だった。それからほぼ40年にわたって彼は短い正気の期間を除いて、「プリンストンの幽霊」と呼ばれながら過ごす。普通ならそのまま廃人となりかねない。しかし、妻アリシアの献身的な努力もあって、そこから奇跡的に正気に回帰し、栄光を手にする。その辺の描写が実に見事だ。
天才が持つ正気と狂気、ひらめき。そして一面では悲しみと驚き、そして喜びに満ちた生涯を正面から取り上げたもので、翻訳もうまい。彼はまだ実在の人物にもかかわらず書かれた伝記だが、読む者を飽きさせない。
(住信基礎研究所主席研究員 伊藤 洋一)
(日経ビジネス 2002/05/13 Copyright©2001 日経BP企画..All rights reserved.)
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143 人中、132人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 1.0
まれに見るほどの悪訳,
By lars (新潟県) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 (単行本)
よく知られている通り、この本の原著はアメリカでいくつもの重要な賞を受けており、映画化もされました。 綿密な取材に基づいて書かれているのが如実に分かるうえ、記述も良心的で、実に素晴らしい本です。 「数学者ナッシュ」の業績よりも、むしろ彼の精神世界、人間性に重点がおかれており、その点で「人間ナッシュ」の魅力を精彩に伝えていると思います。しかし、その日本語版である本書には失望を禁じえません。 信じられないような初歩的な誤訳、原文の曲解、意味不明の訳文にあふれており、原著のすばらしさを損なってなおあまりあるものになっています。 翻訳に間違いは付き物だし、原文もあまり平易ではないと思うので、仕方ない部分もたしかにあるでしょうが、これではあまりにひどい。 原著がたいへんな名著であるだけに、我々日本人読者とって、その損失はたいへんに大きなものだと思います。 これでは「映画の日本での公開に間に合わせるための粗雑なやっつけ仕事」(実際のところは知る由もありませんが)と勘繰られても仕方ないのではないでしょうか? 早いうちに改訳されることを希望して止みません。
23 人中、22人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
映画を見た人にはぜひこの本も勧めたい,
By
9 人中、9人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
事実は映画より。。。,
By yutaka (東京都) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 (単行本)
高等数学、経済理論、精神医学、戦後アメリカ政治、どれも一般受けする内容ではありません。主人公自身、はじめは冷酷でスキャンダラスな、親しみの持てないエリートとして描かれます。しかしこの本は、これら全てをある程度理解する知性と、世界中の関係者に充分取材する行動力がなければ執筆できません。一流紙の記者とはいえ、著者ナサー氏が払ったであろう膨大な努力に頭が下がります。おそらく著者には、現在のナッシュ氏がさぞや魅力的な人物に映ったのでしょう。何か原動力がなければ、ここまで密度の濃い伝記は書けないはずです。そして、現在のナッシュ氏の寛大さにも敬意を憶えます。よって☆5つです。不祥事さえ赤裸々に描いたにもかかわらず、本人現役中(存命中じゃありません)に発表できたのは驚くべきことです。日本版あとがきによれば、ナッシュ氏は内容を讃えてさえいます。不祥事を書かれてあえて讃える有名人など、他に何人いるでしょうか。まして映画化などもっての他です。氏という回復例の存在は、同じ病に苦しむ人々にとって大きな希望である事は疑いありません。その事を自覚しているから、数学と関係のない不祥事やプライバシーに関してさえ、氏は公表を認めたのでしょう。 (ちなみに映画版でナッシュを演じたラッセル・クロウは、若き日の氏の雰囲気をうまく伝えています。それもこの本の写真で分かります) 一個人の伝記でありながら上記の全てが関わってくる上に、下は便所の破廉恥罪から上はノーベル賞受賞まで、毀誉褒貶の人生が600ページ。読みどころは人それぞれで、きっと数学史や経済学史としても読めるのでしょう。 私は、粘り強い闘病記、または傲慢だった天才の人格成長記として読みました。特にナッシュ氏と同年代の患者を身内に持つため、氏の治療法と20世紀精神医療の発展史に深く興味を覚え読み進めました。経済記者の著者には畑違いのはずですが、病気の描写と説明は的確で信頼が置けます。医療史としての史料価値は高いと言えます。翻訳者も苦労されたでしょうが説明は的を得ており、当時の雰囲気も人物も、生き生きと良く伝わってきます。なお、氏が受けた治療とそれへの意見はそのまま参考にはできません。今の精神医療は、当時より遥かに安全で効果の高い薬物療法が主流ですし、治療には当然個人差があるからです。
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