タランティーノが「パルプ・フィクション」で物語の時間軸をパラレルに描き話題をさらった頃、同じような試みに挑んだ若い世代のフィルムメーカー達が同時多発的に出現した。マケドニアから飛び出した俊英・ミルチョ・マンチェフスキーの「ビフォア・ザ・レイン」は、デビュー作と呼ぶにはあまりにも見事な、傑作!である。
映画は3部構成のオムニバス。
第1部「言葉」:マケドニア、正教の修道院。「沈黙」の誓いをたてた若い僧キリル(グレゴワール・コラン)の元に、マケドニア人と敵対するアルバニア人少女・ザミラが逃げ込んでくる。二人は恋に落ち、駆け落ちするが、二人の行く先を暗示するかのように、雨雲が・・・。
第2部「顔」:ロンドン。カメラマンのアレックス(レード・セルベッジア)は、同じ職場で働く恋人アン(カトリン・カートリッジ)に突然「故郷マケドニアに帰るから一緒に暮らそう」と言う。しかしアンは決心がつかない。そしてアレックスは一人マケドニアへ・・・。
第3部「写真」:16年ぶりに故郷に戻ったアレックス。しかし民族同士の対立はさらに深まっていた。そんな中、アレックスはかつての恋人で、今は敵対するアルバニア人のハナから「マケドニア人を殺してしまった娘のザミラを助けて」と頼まれる。アレックスは悩み、同族を裏切ってでも、ザミラを助ける決心をする。親類が放った銃弾に倒れるアレックス。そしてザミラが逃げる先には修道院・・・そこでは一人の老僧が、雨の到来を予感していた・・・。
物語ははじめ、オムニバスのように見える。が、「雨」をキーワードに、全く別の視点と舞台で語られていると思われた物語が、ラストでつながってゆく。しかも上記のあらすじでは紹介しきれない、細かいエピソードが入り組み、めくるめくモザイク画の様に。
しかし、マンチェフスキーが行った「時間の解体と再構成」は、単なるストーリーテリングのテクニックではない。映画の中で、観客へのメッセージの如く、壁に書かれた「The circle is not round」・・・。
マンチェフスキー曰く「この3つの話をつなぐ“円”は必ずしもつながっていない事を、映画の終わりは暗示している。どこが始まりでどこが終わりなのか?時間は死なないし、終わらない。まるで禅問答のように」
それぞれのエピソードに登場する人物の運命は、ひょっとすると全く違った未来が待っているかもしれない、そういう解釈もできるのだ。そう、「ビフォア・ザ・レイン」は、パラレルに解体された物語が一本に修復される、のではなく、物語の先に待つ、パラレルな可能性を提示した「物語」のための「物語」を語った映画なのだ。
十五歳の時に、「トルストイのように何千ページも書かなくったって、俳句は素晴らしいものを表現できる」といって文学の教師を激怒させたという、マンチェフスキー監督。ムム、早熟ですな。
さて、次作「ダスト」において、マンチェフスキーは“「物語」とは語り継がれるもの”をテーマに、これまた物語の本質に迫る素晴らしい作品を我々に提示してくれるのである。
キャッチコピーは、「西部のガンマンが動乱のバルカン半島に渡って、トルコ軍相手に一人ワイルドバンチ!」って、あれ?何かイメージ違いますか?ともあれ、ご興味の方はぜひご鑑賞を。
そしてもちろん、この「ビフォア・ザ・レイン」を早急にDVD化するように!