幼馴染サイードとハーレドは、イスラエル占領下のパレスチナ人として、ともに貧しく希望のない日々を送ってきた。民族の誇りを奪われた屈辱を糧とし、パレスチナの独立を回復する聖戦のために死ぬことを目標に生きている。同じ環境で同じ目標をもつ二人の運命は自爆テロの目前で、運命を分かつ。
『自爆テロリストの正体 』(国末 憲人著)がレポートしているように、自爆テロでの殉教は、現在は目標を見失った若者の自分探しと自爆テロリストの供給を継続的に必要とする組織の論理とがマッチングした結果でしかないという極めて現代的な状況は、本作においても、組織の人間達の描写によって明らかになっている。組織の幹部達は殉死の意義を幾分かの嘘を交えてマニュアル的に二人に説きつつ、二人の逡巡よりも計画の予定通りの進捗を最優先に意識してテキパキと事を進める。
本作はそこからさらに進んで、同じ環境で育ち暮らしていながらも、自爆テロを決行する者と最後に踏みとどまる者の決定的な違いを、それぞれの家族の関係に見出す。
多くのメディアが歴史的政治的対立として描くパレスチナ問題は、ここでは徹底的に個人の生活の一部として描写される。決行の宣言をビデオに撮ろうとしてもカメラが壊れて撮り直しが必要だし、組織の幹部はカメラの後ろでピタパンを食べている。安くて性能のいい水の浄水フィルターを見つけることは家族の重大な課題だ。爆弾を身体に貼ったテープは、はがす時に痛い。主人公の母親の料理は手元から映していても、自爆テロのシーンはついに登場しない。自爆テロは徹底的に個人的な行為であって、政治やイデオロギーはその借景に過ぎない。そんな、自爆テロを含む生活の風景を丁寧に描くことが、本作を他の作品と隔てている。