本作の魅力は、なんといってもロックの物語だから、ということだろう。
サンデー版の前半では、その登場からニヒルな悪人としての面が強調されている。
トッペイがその手先として、いいように使われるあたりが、主客逆転といった感じである。
そして後半、その破滅というカタルシスに向かって、ストーリーが進んでいく。
そう、本作はロックの栄光と破滅を描いたものであり、バンパイヤ一族の存在は、そのための必須因子ということなのである。
そして、最終的にロックは破滅したのか?
このサンデー版の後半が収載された本書の表紙が、ロックのアップであることも、本作がロックのためのものであることを証明している。
実にかっこいい。
トッペイは、遠景の小さなシルエットのみである。
そして、何と言ってもこの後半で魅力的なのは、ロックが作ったあの屋敷だ。
残念なことに、前半では何度も女装していたロックが、後半では変装すらほとんどしなくなってしまったことである。
西郷には変装するが。
ロックの変装には、乱歩の「二十面相」が念頭にあったと思われる。
誰が見ても正体の分かる千恵蔵「多羅尾伴内」じゃないと思う。
この、他人になりきれる、という才能が、実はロックのバンパイヤ能力なのだ、という設定に、著者はしたかったんじゃないだろうか。
それが、バンパイヤ革命という大きなイデオロギーの中で出番をなくした結果、ロックがバンパイヤなのかどうかということは、最後まで曖昧になってしまった。
このあたり、愛読者としては少々残念である。
そしてこのテーマは、「少年ブック」版第二部では、ついに登場しないまま、未完で終わってしまうのだ。
サンデー版でも、ロックがバンパイヤであると主張するのは岩根山ルリ子だけなのである。
だから、もしかすると著者は、人間もバンパイヤ同様に化けることができる。
ただし、バンパイヤは外見が変化するが、人間は内面が変化する。
そして実は、この内面が変化する方が、実はずっと恐ろしいのだということを、主張したかったのかもしれない。
だから、その対比として、トッペイはバンパイヤだが純粋でまっすぐな性格の持ち主として設定されているのだろう。
また、その他、ロック以外の非バンパイヤの登場人物たちも、まっすぐな性格のものばかりだ。
特に西郷。
彼の存在は、ロックの破滅にとって、キーとなるはずだったんじゃないか、という気がする。
多分、その方針も、ロックが変装しなくなったのと並行して変わってしまった。
それは多分、バンパイヤ革命のイデオロギーをあまりにも大きくしすぎたためだろうと思う。