ロベール・ブレッソン、本当に奇妙な映画を撮る監督だ。登場人物には全く感情移入できない。ただ暗い画面が続いていく陰鬱な映画である。葛藤を描いた人間ドラマではなく、人間の愚かさをロバの目を通して淡々と隠喩的に描いている。ただあまりも哀しくやりきれない映画だ。
主役はロバのバルタザールである。哀れで寡黙なロバの受難劇。キリスト教的色彩が濃い映画だ。欲望や過ちや暴力や罪など人間の愚行を黙って見つめ続ける愚鈍なるロバの目。ロバは何も出来ないでただ見つめるだけ。その哀れな無垢なるロバの目が、人間の振る舞いを逆照射する。
まだ小さいバルタザールと戯れる子ども達の幸福な映像から始まるこの映画、数年後バルタザールは、重い荷物を運ばされ、ムチで叩かれ、人間のために働き続ける過酷な現実が描かれる。少女に可愛いがられると花で飾られもするが、しっぽを焼かれたり、椅子を投げられたりして、虐待のように苛められたりもする。サーカスでは計算できるロバとして見世物にされ、病気になって殺されそうになったりしつつ、人から人へ飼主が移り代わりながら、最後は静かに羊の群れの中で眠るように死んでいく。バルタザールを通して、描かれるのはさまざまな人間たちの方だ。
バルタザールとは聖書に出てくる名前で、キリスト誕生時に馬小屋に訪れた、東方の三博士(メルキオール、バルタザール、カスパール)の一人だそうで、バルタザールは“善行”の象徴とされるのだそうだ。
動物を映画に使っているので、どうしてもモンタージュを駆使して作為的にカットを編集し、物語を作っていく。全体としては計算されつくした映画という印象がある。だけど詳しい説明はいつものように描かれない。シューベルトのピアノソナタの音楽が使われているが、物語は盛り上がらない。淡々とエピソードがロバを通してつなげられていくだけだ。お金を通じて、人から人へ話が移り変わっていく『ラルジャン』と同じ構造だ。
バルタザールを可愛がるマリーを演じるのは、後にゴダールの妻となるアンヌ・ビアゼムスキーだ。幼く純真なマリーとジャックの幼き恋と小さなロバのバルタザール。幸福なる時代から一転、バルタザールの受難が始まる。ジェラールという悪ガキの登場とともに、嫉妬で苛められたりして受難はエスカレートしていく。最初はバルダザールのまわりを回りながら、ジェラールから逃げ回っていたマリーだが、次第にジェラールと恋仲になって変わっていく。バルダザールのことをいつしか見向きもしなくなる。その変わり方が、なんの心理描写もないままに淡々と描かれる。人間はどこかでそういうわからないものなのだ。安易な心理描写で、わかりやすい物語にしないのが、この監督の凄いところだ。最後は、マリーは初恋のジャックの元へ戻るのだが、ジェラールとの決着をつけに行くと、裸にされて辱めを受けてしまう。そしてマリーは傷心のうちに町を去っていくのがなんともいやるせない。ただ、窓から見えるマリーの裸のバックショットはせつないほど美しいのだ。
やや何度も挿入されるロバの目が映像の作為性を感じさせ、ロベッソンの他の作品に比べて意味性(寓意性)が強く出た印象がある。ただアンヌ・ビアゼムスキーの美しい無表情さがいい。
『少女ムシェット』と比べてみると、2作とも少女の描かれ方がとても性的なのに気づく。『抵抗』や『スリ』が寡黙な男たちの自意識の映画だったのに比べると、この少女を描いた2作は、少女が女へと変わっていく様子がとても辛辣であり、なまめかしいほどに性的なのだ。それはロベール・ブレッソンが男の視線から女を冷徹に見つめた映画監督であることを示している。そういう意味で、この映画はアンヌ・ビアゼムスキーの変化を見る上でも、ただならぬ映画である。