チェロは人間の声の音に最も近いと言われる。そのため最も自然に人間の耳に入り、心地よく響く。しかし、その歴史はヴァイオリンよりも地味で古今東西のチェロの名曲と言えるものは多くはない。その中でバッハの無伴奏チェロ組曲は最高の曲である。この当時、近代的なチェロは存在せず、ヴィオラ・ダ・ガンバやバリトンと呼ばれる現在のチェロには到底及ばない楽器が用いられていた。そのため独奏楽器としてはほとんど用いられず、ただ合奏の低音部を担う程度の役割しか与えられていなかった。そのような時代にバッハが独奏チェロのための曲を作った事は彼のチェロへの関心とこの楽器の魅力に対する先見の明があったと言えるだろう。この組曲はヴァイオリンソナタのような厳格な形式に依らず標準的な古典組曲の形に則っているが、内容は深く、紛れもないバッハの音楽である。そしてカザルスのこの演奏は彼の最高傑作のみならず、人類最高の遺産である。20世紀という激動の時代に自らの信念を貫き、最高のチェリストのみならず、最大の人格を備えた芸術家であった彼は後世に多大な影響を与えた。そしてこの演奏からは彼の命の鼓動が聞こえてくる。彼はこの曲の自筆譜を若き頃古本屋で見つけ、熱心に研究したという。その努力があたかも立派な樹木が地の下の見えない所に深く根を張っているように、冒頭のプレリュードから肺腑をえぐられるように心に響いてくる。このような演奏を聴くと自分の愚かさを思い知らされるようである。今現在の日本で僅かのお金を出してこの録音を簡単に買う事ができる時代になったが、果たしてそれで良いのかと思ってしまう。命を懸けてこの曲に取り組んだカザルスの命の鼓動を聴く側が安直な態度では決していけないだろう。こちらも可能な限り全精力を傾けて聴き、ようやくそこから何か得る事があるだろう。古き音の向こうから聞こえる命の鼓動を魂で聴くことによって。