アマゾンで検索してみると、2003年10月から2004年11月にかけて刊行された「クリスティー文庫」の長編全73作(ノン・ミステリを含む)のうちで、カスタマーレビューの付いていない作品が、どういうわけか、一つだけある。この「バグダッドの秘密」である。レビューが付いていない、あるいは、低評価という理由で、もし、アガサの長編作の幾つかに、手を出すのを躊躇している人がいるのだとしたら、残念なことだと思う。
他の作家の名作とされている長編ミステリの中には、謎解き以外には見るべきものがなく、終盤まで、退屈極まりないものも少なくないのだが、謎解きだけにとどまらない類い稀なストーリー・テラー振りを誇るアガサの長編作なら、私は、最晩年の「フランクフルトへの乗客」と「運命の裏木戸」以外は、全て「買い」でもいいと思っているくらいなのである。
さて、この「バグダッドの秘密」は、アガサが、第二次世界大戦前後を通じて、夫の遺跡発掘調査に同行して訪れていたという、勝手知ったるイラクのバグダッドを舞台とした冒険ミステリである。
時は、第二次世界大戦直後の一触即発の東西冷戦時代。バグダッドでは、世界の命運を決する米ソ首脳会談が開かれようとしている。イギリスの秘密諜報員とその生命を狙う第三勢力、いわくありげな世界旅行家、アメリカの銀行頭取の謎の秘書、ロンドンに住むハンサムな青年とその青年にひとめぼれした娘。誰も彼もがバグダッドを目指し、不可解な出来事が続発する…。
この作品の設定と終盤のプロットには、たしかに、誰もが思う強引過ぎるところがあるのも事実だ。しかし、自らが体験した遺跡発掘現場の情景を見事に事件の結末に融合させてみせ、舞台をイラクとしたことを読者に納得させながら、本格派ミステリ並の収束をしてみせるアガサの鮮やかな手並みを見せ付けられると、そんなことは、さして気にもならなくなってしまうのだ。