ハンス・ロスバウトの演奏を語るのに、ユーモアだとかウィットだとかは、ほとんど入り込む隙がない。
たとえ、作曲家がユーモアを交えてナンセンスな音を書き込んだとしても、ロスバウトは大真面目な顔で楽譜を読んだことだろう。
パパ・ハイドンことヨーゼフ・ハイドンの作った交響曲など、オーケストラを細部に至るまで掌握し、機械ではないかと思えるほどに整然とした演奏を繰り広げる。しかし、その整然さが、縦割り的な印象を与えないところが、ハイドン研究家のロビンス・ランドンのお気に入りとなった要因なのではないだろうか。その演奏は、まるで組み木細工の工芸品のようである。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でも、そのむせ返るような情感をなるべくカットし、作品を突っぱねて演奏している。作品に共感を寄せるのではなく、徹底的に対象化し、その楽譜から確実に読み取れることのみを掬い取ろうとしている。ユリアン・フォン・カーロイのピアノも、情感に偏ることなく、ガッチリとした安定感で、この曲をものにしている。
演奏者のほうで懇切丁寧に注釈を加えなくても、楽譜が全てを物語っているのだから、楽譜を徹底的に読み込んでなるべく精緻に実音化しようというのが、ロスバウトのスタンスだ。ボリス・ブラッヒャーの協奏的音楽では、複雑なテクスチュアを手際よくまとめ、ストラヴィンスキーの一連のバレエ音楽では、ごまかしの一切ない、思い切りのいいオーケストラ・コントロールで、ガッチリとまとめている。
その完成度の高さは、思わず冷血漢と叫びたくなるほどのものだが、むしろ冷血漢であることにこだわりを持っている風でもある。
しかし、ロスバウトが音楽を無表情で演奏することに喜びを見出しているわけではないということは、ジャン・シベリウスの一連の作品を聴けば、なんとなくであれ、わかると思う。ロスバウトは徹底してオーケストラをしごきあげて演奏しているのだが、その音楽からは、誇り高さや豊かな叙情性といったものがにじみ出てくる。
ロスバウトは、ともすると演奏家が陥ってしまいがちな主観的な決めつけをなるべく回避し、楽譜に忠実であろうとする。それは、楽譜に並べられた音符をただの音の羅列と見做すのではなく、音と音の繋がりの論理を読み解くことである。ロスバウトの、それこそ打ちっぱなしのコンクリート建築のようなサウンドは、音を羅列しているのではなく、楽譜をロスバウトなりに論理的に読み解いた結果なのである。
ロスバウトの音楽が冷徹だとするのであれば、それは結果として冷徹なのではなく、冷徹であろうとする結果であり、冷徹であろうという意志を貫徹しているところに、ロスバウトの芸風の面白さがある。